6月15日は1991(平成3)年ピナツボ火山の噴火があった日

最終更新:2022.06.27

 

富士山の最後の噴火ー宝永噴火ーに関連して  2022年6月27日
1991年ピナツボ火山噴火概要  2020年6月15日
噴火の2年後に日本列島を襲った大冷害    2020年6月15日

 

 フィリピンのピナツボ火山は1991年6月15日に噴火のクライマックスを迎え,10㎞3ものマグマが一挙に放出されるという,20世紀後半における最大の噴火を発生させた.このような規模の大噴火にも拘らず,クライマックス噴火の3日前には6万人もの人々が避難しており,被害を最小限にとどめた大噴火として取り上げられることが多い.

 

 ピナツボ火山はフィリピンの首都,マニラから約100㎞の位置にあるが,日本で言えば約100㎞圏の首都圏を取り巻くように富士山,箱根火山,浅間山,榛名火山,赤城火山等々,多くの火山が位置し,ピナツボ火山と同様の位置関係にある.これらの火山については特に詳しく噴火史,噴火の特徴を中心に知っておく必要があるだろう.

 

富士山の最後の噴火ー宝永噴火ーに関連して

更新2022.06.27

 

 この中で,富士山についてはハザードマップの改訂についてその概要を2021年4月7日にお知らせした(富士山ハザードマップの改定(地盤なう#火山#富士山ハザードマップ)).

 この富士山の最後の噴火は1707年に発生した宝永噴火である.

 去る5月末に行われた地球惑星連合大会において,宝永噴火に関する発表があった(馬場ほか, 2022).その内容は,大変重要であり,かつ非常に気になるものであったので,簡単に感想を述べさせていただきたい.

 従来宝永噴火は Ho-1,-2,-3,-4の4回のステージに分けられ,最初の噴火(Ho-1)には白色の軽石が噴出しているのが特徴で,以後黒色のスコリアに変わるとされてきた(宮地,1984;Miyaji et al.,2011など).今回の発表では,そのHo-1の前にスコリア質の噴火があり,それが宝永噴火の真の始まりであるというものである.

 筆者が気になっているのは,数年前に,宝永噴火の前,1590年に別の噴火があったとする見解が上杉・砂田(2008),上本・上杉・卜部(2016)によって発表されていたからである.

 

写真1 富士河村城跡発掘調査全景 (上杉陽氏撮影、提供) ②は宝永スコリア層(Ho)  
写真1 富士河村城跡発掘調査全景 (上杉陽氏撮影、提供) ②は宝永スコリア層(Ho)  

 1590年に噴火はあったのか? それは富士河村城スコリア(Fj-Kw:上杉・砂田,2008)と命名されたもので,神奈川県山北市の河村城跡の発掘調査で発見されたものである.河村城は戦国時代の後北条氏の山城で,1589年12月に始まった豊臣秀吉の小田原城征伐によって,1590年7月に小田原城開城となり,後北条氏の支城に対する閉城命令が出され,河村城の堀の埋め立てが行われた.その埋立て土の上に,スコリアやスパッター,溶岩片が発見された.重要なのは,城外の自然堆積層に宝永スコリア層の下位に同様のスコリア等を含む層が認められたことである.

 しかし,中・近世の古文書を扱う歴史学者・民俗学研究者からは,この時代になって古文書に何の記述もないのは疑問という意見が出されている.

 この Fj-Kw の詳しい特徴などは上杉・砂田(2008),上本・上杉・卜部(2016)等に詳しいので,割愛させていただくが,その特徴は,少なくても筆者には馬場ほか(2022)のそれと似ているのではないかと思える.

 したがってこの発表でも,この Fj-Kw について検討するべきではなかったかと考える.

 それは,富士山の最新の噴火である宝永噴火の前の噴火についてはまだ定まった見解がないが,それは今後の噴火を考える時に極めて重要なデータであるからである.

 

 この記事の作成にあたり情報提供いただいた上杉陽氏・砂田佳弘氏に感謝申し上げる.

引用文献

上本進二・上杉 陽・卜部厚志(2016)南関東各遺跡の富士河村城スコリア(Fj-Kw)対比候補ーFj-Kw:1590年直後に富士山から噴出した新発見テフラー.関東の四紀,35号,37-55.

上杉 陽・砂田佳弘(2008)Fj-Kw(仮称)の発見について.神奈川県山北町文化財調査報告,2 河村城跡,22-28,山北町教育委員会.

馬場 章・藤井敏嗣・安田 敦・小林 淳・村田昌則・西澤文勝(2022)富士山、宝永噴火の最初期相.JPGU2022,SVC29-07.

宮地直道(1984)富士火山1707年噴火火砕物の降下に及ぼした風の影響.火山,29,17-30.

Miyaji,N., Kan'no,A., Kanamaru,T. and Mannen,K. (2011) High-resolution reconstruction of the Hoei eruption (AD 1707) of Fuji volcano, Japan. Journal of Volcanology and Geothermal Research, 207(3-4), 113-129.

 

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1991年ピナツボ火山噴火概要

 フィリピンのピナツボ火山は1991年6月15日に噴火のクライマックスを迎え,10㎞3ものマグマが一挙に放出されるという,20世紀後半における最大の噴火を発生させた.20世紀最大の噴火はアラスカのKatmai火山の1912年噴火で,そのマグマ噴出量は13㎞3とされるからほぼ匹敵する規模であった.

 

 このような規模の大噴火にも拘らず,クライマックス噴火の3日前には6万人もの人々が避難しており,被害を最小限にとどめた大噴火として取り上げられることが多い.

 

 この噴火によって厚く堆積した火砕流堆積物が長期にわたって高温状態を保ったことで二次的な水蒸気爆発が噴火後数年にわたって繰り返されたことも報告されている.

 

 また,この噴火の噴煙柱は成層圏に注入され,火山灰・エアロゾルは地球を何度も周回しながら南北の高緯度地域へと拡散した.その結果生じた地球の気候変動に対する影響という側面でも注目される噴火である.

 

図1 ひまわりの衛星画像に基づくピナツボ火山1991年噴火時の噴煙拡大の推移

Newhall & Punongbayan(1996)を参考に簡略化

 このピナツボ火山の位置は,フィリピンの首都,マニラの北95㎞に位置している.東京で言えばおよそ箱根火山や富士火山と同じ距離にある.北に目をやれば浅間火山,榛名火山,赤城火山ほか多くの火山が類似の距離にある.箱根火山等も過去にはピナツボ噴火と同タイプ,同規模の大噴火を起こしており,首都圏に住む我々には是非とも参考にしなければならない事例である.

 

 この噴火ついてはNewhall & Punongbayan(1996)の1126頁にのぼる大著が刊行されたほか,アメリカ地質調査所(USGS)の報告書によってよくまとめられている(下記リンク参照).さらには,H-U シュミンケ著「火山学」にも詳細に紹介されているので,この本の和訳本に基づいて,以下に概要を述べておきたい.

 

 ・Newhall,CH & Punongbayan,RS (1996) Fire and mud:eruptions and lahars of Mount Pinatubo,Philippines.PHILVOCS and Univ Washinton Press, Seattle, 1-1126.

 ・USGSピナツボ火山噴火報告書のリンク先 ⇒ https://pubs.usgs.gov/pinatubo/

 ・H-U シュミンケ (2010) 火山学 (隅田まり・西村裕一訳),354pp, 古今書院 ⇒ http://www.kokon.co.jp/book/b238192.html

噴火の概要,観測と対応の経緯

 

・1990年7月16日 M7.8の地震がピナツボ火山北西100kmの地点で発生.この地震がピナツボ火山のマグマ溜まりに影響を及ぼしたかもしれない。

・1991年3月中旬 地震活動が始まる.

・4月2日 水蒸気噴火が発生.

・4月後半~6月始めにかけて,アメリカ地質調査所から研究者が派遣され,調査・観測にあたる.

・5月28日 SO2の放出量が5000t/日以上に増加.

・6月1日 地震の震源は山頂付近の浅所に集中.

・6月3日 小規模な火山灰噴火が発生.

・6月5日 「火砕流を伴う大規模な噴火が2週間以内に起きる可能性がある(警報レベル3)」と発表.

・6月7日 噴煙(水蒸気雲)が上空8㎞まで上昇,「大噴火が24時間以内に起きる(警報レベル4)」と発表され,多くの住民が避難.

・6月10日 米軍クラーク空軍基地から14500人が避難.

・6月12日 最初の爆発的噴火,避難指示範囲は火口から半径30㎞に拡大され,避難者総数は6万人に達した.

・6月15日 20世紀後半では最大規模となる噴火が発生.

 

 この噴火で生じた噴煙柱は人工衛星の観測データによると,広がった部分の直径は400km,高度は成層圏に達しており,中心部では35km,縁辺部では25kmにまで達して,降下テフラ(軽石・火山灰)の総噴出量は3.4~4.4km3に及んだ.火山灰は偏東風によって西方に運搬された.

 

 火砕流は火口から周囲に広く広がり,放射状の谷を埋め,厚いところでは厚さ200mにも及んだ.火砕流の噴出量は5~6㎞3と見積もられた.

 

 不運にも噴火発生の6月15日,ルソン島には台風が達しており,水分を含んだ火山灰の重みで多くの家屋が崩壊.さらに火砕流堆積物は未固結なため7月から始まったモンスーンの雨によりラハールを発生し,広大な農地が埋め尽くされた.ラハールによる被害は2005年ごろまで続くものと予想され,信じられないほどの経済的・社会的打撃を与えた.

 

 この過程で,アメリカの地質調査所とフィリピン火山観測所の協力により,近代的で詳細な観測がなされ,行政も一体となって,避難の周知にあたった.

 

〔以上はH-U シュミンケ著:火山学(隅田まり・西村裕一訳)を参考に遠藤邦彦・隅田まり・杉中佑輔がまとめた〕

 

1991年ピナツボ火山噴火の2年後に日本列島を襲った大冷害

 

 1991年ピナツボ火山の噴火に由来する火山灰やエアロゾルは,地球の広い範囲を覆うようになり,南極の日本の基地の雪からも火山灰が発見された.当時には既に地球温暖化問題(気候変動問題)は国際的に大きな課題になっており,火山灰やエアロゾルの大気圏への注入の効果がどうなるのか大いに注目された.

 

 以下に山川修治日本大学教授によりまとめられたものを紹介する. 

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