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秋田県男鹿市「図上訓練」に参加して

防災アラカルト(4)から

杉山一郎

 

まえがき

 R4年度最初の防災図上研修(2022年10月4日)で男鹿市を訪ねた。ここでは、男鹿市の地形地質状況と男鹿市の災害の歴史について少し触れたいと思う。

 私が男鹿を訪れるのは今回で2回目である。旅行好きな二十歳のころ、男鹿半島一周の旅をしている。あまり記憶していないが、最初に降り立った駅は「羽立駅」で、駅名標の前で撮影した写真の記憶がある。(現在、アルバムはすべて処分したので残っていない)

 当時、旅を始めたばかりのころ、何故、旅行先として「男鹿半島」を選んだのか、まったく記憶していないが、消防防災科学センターが研修先として私を指名したことも宿縁と言えなくもない。

 男鹿半島は地理的、地質的教育には、まさにうってつけの場所ということらしい。時代は白亜紀後期の花崗岩類(約6000万年前とも9000万年前とも言われる)から第三紀の火山岩類や火山地形、第四紀(現在まで)の海成段丘、砂丘と砂洲など、多彩な現象を観察することができるということだ。また、北日本の日本海沿岸は変化の少ない、至って平坦な地形の中に突き出した半島であることから、元々は島であったという歴史があるとされる。

 地形的には、北部と南部が砂州によって秋田平野と繋がり、現在の八郎潟を含む周辺域の低地帯(8m未満の潟西低地)を形成している。中心部は西から標高715.2mの本山を中心とした西部山地、150mから90m未満で20mまでの中央丘陵と段丘地帯、そして、354.8mの寒風山を中心とした寒風火山に区分することができる。

 一方、災害の履歴を俯瞰すると、秋田県男鹿市と言えば、日本海中部地震や奥尻島地震を想起する人が多いのではないだろうか。津波により多数の方がお亡くなりになった。特に、日本海中部地震では遠足中の児童が巻き込まれる事態となっている。

 今回の「防災アラカルト」では、男鹿市で行う「防災図上研修」に参加した機会を活かして、その周辺域を観察した結果を簡単にまとめてみた。

 

 

(1)男鹿市というところ

・位置と地勢

 秋田県臨海部のほぼ中央に位置し、東西および南北ともに約24km、面積241.09km2、日本海に突き出た半島の大部分が市域で、県都秋田市までは鉄道距離で39.6km、車で約45分の距離にある。

 男鹿半島は、米代川と雄物川の運搬土砂が堆積してできた砂州によって秋田平野と結ばれた「陸繋島」で、西部は山岳地形を呈して周囲は海岸段丘となっており、東部は沖積地および砂丘となっている。海と山、そして湖と変化に富んだ美しい自然環境に恵まれていることから、昭和48年5月、国定公園の指定を受けている。 ・・・地域防災計画より抜粋

 

(2)災害の歴史(地震本部:内閣府HP)

 

  • 〇1939年5月1日14時男鹿地震・・・男鹿半島沿岸部(M6.8)
    • ・余震;約2分後、M6.7の地震発生、震源の深さ2km、死者27人
  • 〇1964年5月7日16時男鹿半島沖地震(M6.9)・・・秋田沖
    • ・震源の深さ24km、1983年日本海中部地震と同じ場所。
  • 〇日本海中部地震(1983年5月26日正午前)・・・震源:秋田県能代市西方沖100km(M7.7)
    • ・日本海側で10mの津波、地震による死者数104名(うち、100名は津波)
    • ・男鹿市加茂青砂では、遠足で海岸に来ていた合川南小学生13人が死亡。(児童43名、引率教員)
    • ・発生から14分で、津波警報発令 → 早いところは数分後に到達
    •     日本海側に津波は来ないという俗説によって、人的被害が拡大
    • ・前震:5月14日22時(M5)、5月22日4時(M2.4)、同23時(M2.3)の地震(本震と同じ場所)
    • ・余震:最大規模の余震(M7.1)が6月21日15時に発生
    • ・被害:男鹿半島付け根の砂洲砂丘地帯で液状化が発生、 人造のため池の堤体が崩壊、男鹿市船越地区の沈下 による路面の段差、男鹿漁港の港湾施設被害、 海底の液状化現象など。

 

〇地震の要因

 日本海東縁部は、太平洋側のように、海溝からプレートが沈み込む境界ではなく、プレート境界が幅広い帯状の地域となっており、南北走向の東西に分布する何条かの断層帯より成り、幅を持った領域全体(ひずみ集中帯)で圧縮力によるひずみを解消することで発生する。

 日本海東縁部の地震発生確率(30年以内):秋田県沖で3%程度以下、青森県西方沖でほぼ0%。 (出典:地震調査研究推進本部資料より抜粋して記載)

 

(3)男鹿市と地震災害について

 男鹿市という地域では、一旦地震が起こると、津波や液状化被害、土砂災害などの発生確率が高い特殊な地理的条件下にあると言える。そのため、この地域の住民が日常の中で意識下に置かなければならないことは、①地震が起きてから短時間で津波が来襲すること、②短時間で適切な避難行動を取らなければならないこと、③土砂災害警戒区域の認識を高めることなどが重要となる。また、海岸の狭い範囲に漁村が存することで、支援が行き届かない地域環境にもある。

 

(4)漁村の現状と災害時の対応力

 男鹿市と言えば、何といっても、1983年の日本海中部地震の時、日本海を線状に走る津波映像を生まれて初めて見たときの衝撃は今でもはっきり記憶している。

 その後、2004年のスマトラ島沖地震(バンダ・アチェ)では海岸に来襲する津波映像や海が後退する映像、そして2011年の東日本大震災の津波映像へと続く。いずれも津波の恐ろしさが十分に伝わる映像ばかりであり、これらの経験は、だれもが実際に経験していなくても忘れることはできない出来事として、心に深く刻まれているはずである。

 男鹿市に限らず、国内の漁港の多くは、背後に急崖を抱えるような狭小な区域に多くの漁村が点在している。自然災害の多い日本の地理的条件や社会的条件は、私のような通りすがりのものであっても、日常の生活環境と災害を強く結び付けている実態を強く印象付けることとなった。

 写真①は、旧男鹿市立加茂青砂小学校校舎、写真②は合川南小学校児童地震津波殉難の碑、写真③は、加茂青砂集落の遠景。写真④は鵜ノ崎海岸の鬼の洗濯岩と小豆岩(残念ながら、当時は風雨が激しく、潮も満ちて何が何だか分からない写真)。最後に、男鹿半島北西の一の目潟、二の目潟、三の目潟について若干触れて置く。

 

写真① 旧男鹿市立加茂青砂小学校校舎

写真② 合川南小学校児童地震津波殉難の碑

 

 1983年5月26日、加茂青砂の海岸に遠足で来ていた合川南小学校(現北秋田市)児童のうち、13名が津波で流されて亡くなった。

写真③ 加茂青砂集落の遠景

写真④ 鵜ノ崎海岸の小豆岩

 

 沖合まで浅瀬が続き、潮が引くと「鬼の洗濯板」と呼ばれる海岸が姿を見せる。

 約1000万年前に深海底でできた地層が隆起し、波の侵食によってできた地形。

写真⑤ 椿の白岩

 

 2100万年前の火山活動でできた火山礫凝灰岩。白い色が特徴的。

写真⑥ グリーンタフ

 

 同じ2100万年前の火山活動でできた火山礫凝灰岩であるが、熱水のなどの影響で緑色に変質。

写真⑦ 寒風山からの眺望

 

 うっすら右手に見える海岸線は「船越海岸」

 中央は、八郎潟の出口で、男鹿市船越から潟上市方面。

 左手は、八郎潟。

写真⑧ 男鹿温泉郷(湯本温泉・石山温泉)にある「鬼の隠れ道」

 

 明治から大正にかけて石山鉱山と呼ばれ、石灰岩の露天掘りが行われていたところ。

 この道は、採掘した石灰岩を運ぶためのトロッコ道の切通し。

 

※ 一の目潟、二の目潟、三の目潟について

 2023.3.27再編集

 

 男鹿目潟火山群は、男鹿半島の北西端部で海抜標高約50~90mの海岸段丘面にあり、戸賀湾東方に並ぶ丸い形の淡水湖である。この火山群は東から一の目潟、二の目潟、三の目潟と呼ばれ、火山の一種「マール」として知られている。 

 地学辞典によれば、「マールは、爆発的な噴火によって生じた火口で円形またはそれに近い輪郭を持ち、周縁に顕著な堆積物の丘を持たないものとされる。」 

 目潟火山群の成因は、地下深所から上昇するマグマと地下水が接触して爆発的噴火を起こし、短い期間に円形の火口が形成された「単成火山」であり、その爆発力は非常に強く、地下深所からもたらされた噴出物は広範囲に拡散し、火口周縁には溶岩の流出もなく、環状の火山灰を積み上げる丘を持つこともない。また、地下水位が高いことから、噴火終了後の火口は地下水で満たされ、現在は淡水湖としてその姿を残している。 

 

 男鹿半島付近のマントルまでの深さ(地殻の厚さ)は約30kmと考えられている。目潟火山群の特徴としては地下深所のマントルを構成する岩石が爆発的噴火によって、地殻を構成する岩石やマントル上部の岩石の破片を地表に噴出させたこととされ、その代表的岩石として、地殻下部の由来とされる「角閃石や角閃石はんれい岩」、マントル上部の由来とされる「カンラン岩」が地表で採取されたことである。 

 噴出した岩片の大きさは、直径数mmから数cmのものが大半で、時に数10㎝から重さ10kgを超える岩石も採取されている。その中でカンラン岩は、色調がオリーブ色で、φ1~2mmのオリビン鉱物が主体の美しい岩石となっている。(出典:秋田県HPより抜粋して記載) 

 

 目潟火山群の形成時期は、三の目潟の噴出物下位から発見された「姶良Th火山灰」や海岸段丘の形成期などから、一の目潟は約6万~8万年前で、その活動末期に二の目潟が形成され、活動小休止期を挟んで、三の目潟が2万~2万4千年前に形成されたと考えられている。 

 一の目潟の大きさは直径約600m、深さ約45m。二の目潟、三の目潟の大きさは直径約400m、深さ12m、31mである。 

 一の目潟は2007年、国の「天然記念物」に指定され、三の目潟は県の「天然記念物」に指定されている。

編集者から:日本海中部地震では、青森県津軽砂丘や秋田県能代砂丘を中心に大規模な液状化現象が発生しています。本ホームページの、「今日は何があった日」の「5月26日 1983年日本海中部地震」を合わせてご覧ください。

 


考古学展示会・講演会「三鷹12万年史 海と陸の変遷とヒトの暮らし」

是枝若奈

 

 1月14日,東京都三鷹市の市役所で開催された考古学講演会「三鷹12万年史 海と陸の変遷とヒトの暮らし」に行ってきました.縄文海進前後の地形の変遷と,遺跡から縄文時代の人々の生活を探る講演会です.

 小雨の降る寒い日でしたが,満席でした.少しでも見やすい席を探し,前へ,横へと熱心さを伺わせます.

 

遠藤会員の講演

 はじめは遠藤会員の「12万年前,三鷹には海がありました」という衝撃(?)のお話から始まりました.

 武蔵野台地に見られる「武蔵野礫層」を剥ぎ取ると三鷹から世田谷を通り今の多摩川へ抜けるたにがみられること.三鷹市新川で取られたボーリングコアから武蔵野礫層の下に海棲の有孔虫や貝が発見されたことから,縄文海進時に三鷹まで届く入り江が形成されていたと考えられるとのことでした.

 武蔵野台地の真ん中の三鷹から,関東平野の奥まで届く縄文海進,更には世界的な気候変動へ,話は大きく大きく広がっていきました.

小宮雪晴氏の講演

 二番手は小宮雪晴氏の「縄文海進最大期の奥東京湾沿岸の縄文人の暮らし」.三鷹市には貝塚はないので,小宮氏のフィールドである蓮田市の貝塚を舞台に,遺跡ではどんなものがどんなふうに発見され,どう解釈していくのか,豊富な写真とともにお話されました.

 縄文時代というと「貝のゴミ捨て場 貝塚」が頭に思い浮かぶけど,実はゴミ捨て場とは限らず,遺跡の中では稀なものなんだそうです.

中山真治氏の講演

 最後は三鷹市職員中山真治氏の「三鷹市の縄文時代」.貝塚はなくても遺跡はある.三鷹という地名は江戸時代,この辺りが鷹狩り場だったことから来ていますが,縄文時代も居住の痕跡はなく狩場として使われていたようです.遺跡は三鷹市の東,井の頭・仙川・野川の湧水位置に出土するとのこと.やっぱり水が大事!

 写真は相模原市のものですが,ムラの復元は当時の生活をよりリアルに感じられました.

展示会

 講演会と同時に市役所一階では展示会が行われていました.講演会参加者も密回避のため,半分に分かれて見学しました.

 遠藤会員の講演に出てきた三鷹市新川のボーリングコアも剥ぎ取り標本として展示されていました.12万年前の生の地層です!

 17枚の海進海退図は圧巻!どのように地形が変化して行ったかが細かく表現されていました.さらには武蔵野台地がどのように形成されていったかを3Dで表現した縄文海進の動画は見ごたえ十分!

 奥のコーナーでは三鷹市で発見された縄文時代の遺物が目を引きます.気候変動と三鷹市辺りの生活のパネルもあり,皆さん,熱心にご覧になっていました.

 

展示会裏

 もう半分の方は,講演が大幅に伸びたために取れなかった質疑応答の時間となりました.


気仙沼市「地域版タイムライン研修」に参加して

更新 2021年12月1日

杉山一郎

  気仙沼を訪れるのは今回で3回目と記憶している。何といっても「2011年の津波災害」を想起させることが大きい。私たちが津波を映像上で実感したのは、恐らく「2004年12月のスマトラ島沖大地震(海溝型地震で海底面の亀裂延長約45km);死者行方不明者約30万人(M)9.0(2005年2月米国地質調査所)」ではないだろうか。バンダアチェ市街地を激流のごとく押し寄せてくる津波から逃げ惑う人々の姿は衝撃的であった。そして、数年後、その姿をこの日本で見ることになることなど、想像すらできなかった。

 東日本大震災を専門家たちは、数千年に一度の大津波と言うが、人生80年とすれば、少なくとも十数回生まれ変わらないと遭遇しない大津波である。その経験を伝承しようとか、語りつなごうとする人たちの姿勢は素直に応援しなければならないが、数百年から数千年の時を経てどうなるのか、実際のところ、誰もが予測できないことであろう。それゆえに、どんなに辛く、悲しい出来事、思い出も時に忘れてゆくのが「人」というものではないか。 そして、どんな記憶も歳月人を待たずというところか。

 

 今、地球上の多くの人たちは、地球温暖化が諸悪の根源であるがごとく思われているようだ。自然科学を勉強した私には自然の摂理と考えるのが適切ではないかと思うところもあるが、現実的な問題は、気候変動による海水面の上昇が続くと、今世紀末には世界の数億人に影響し、都市機能不全に陥るとされることだ。ICPPの予測通り、このままの気候変動が継続すれば、多くの人たちが数十年後、いや数百年後、住むところを追われ、そして、高潮や高波、暴風雨などの気象災害で都市機能が麻痺するところを目の当たりにするのかもしれない。

 

 世界的な広がりを見せる自然災害の猛威に対峙したとき、今を生きる私たちに何ができるのか、何をすればいいのかなど、地域が一丸となって気象災害に立ち向うためのツールとして「地域版タイムライン」の研修を行うことになった。研修の対象者は、気仙沼市の地域住民(行政、自治会、民生委員、 消防団など)である。

 

 今回の地域住民対象のタイムライン研修は、住民ひとり一人が災害時の災害情報(警戒レベル)に接したとき、①いつ、②誰が、③何をするなどを平常時の備えを踏まえて、それらを地域で整理、収斂し、地域での連携を確認するのが目的とされる。

写真1 河川沿いの狭隘な空間に住居が密集
写真1 河川沿いの狭隘な空間に住居が密集

 そこで、気仙沼市の災害履歴(風水害)を簡単にまとめてみた。

 浸水被害は、主に、沿岸の埋立地や低地部で起きているようだ。浸水被害の発生は「100mm以上の日降水量」で多く、特に、大川沿いでは上流部で「150mm」以上の日降水量でも発生することが多いとされる。

 明治43年8月から平成25年7月までの災害記録を省察すると、日雨量100~150㎜の降雨で、道路の冠水や建物の浸水被害が発生している。また、目安となる大雨が降ると、大川や鹿折川の氾濫の危険度が高くなり、近年では、平成24年5月には鹿折川が決壊した。

このような災害が発生する町の住環境と地形的特徴との間には、次のような課題がある。

 

①氾濫原を取り巻くように土砂災害危険区域が張り付いている。氾濫原から外へ避難する時には、必ずと言っていいくらい土砂災害危険区域を通らないと避難できない構図となっている。

②三陸鉄道に土石流危険区域がかかり、鉄道が寸断される危険区域がある。

③気仙沼湾周辺の沿岸道路には土石流が流れ込む危険区域が散在する。

④鹿折川に沿う34号線沿いでは、鉄道、道路が土石流災害危険区域に当たる。

⑤市街地は概ね洪水危険区域に指定されている。

 

 気仙沼市に限らず、地域の住環境や地形地質条件、社会環境などが錯綜する狭隘な地域で、どのように避難計画を描くのか難しい問題と言える。似て非なるものが自然災害である。一度の経験が次の災害の教訓となるわけではない。人は決して自然に起こる現象に対峙することはできないということだ。

写真2 斜張橋を照らす日の出(大島方向)
写真2 斜張橋を照らす日の出(大島方向)

 最後に、気仙沼市の住民は、三陸海岸(リアス式海岸)という特殊な地形条件の中で社会生活を営んでいる。柳田邦男は1978年1月の伊豆半島沖地震の際、山が迫った海岸部では、「人々は心配していた津波によってではなく、山崩れに襲われて犠牲になった」としている。(柳田邦男「災害情報を考える」)

 この地方で最も危険度が高いのは、複合的に発生する土砂災害であろう。この特殊な地形条件に注意を払うことが命をつなぐことになるのかもしれない。災害と共存する社会とは、地形の歴史を理解し、優しく接していくことではないだろうか。

 世界的に災害の多発する時代にあって、地域の人たちが、沛然と降り注ぐ大自然の猛威もいつか溶解し、そして、時が日常を取り戻すことを信じて、自然災害に向き合ってほしいものだ。どんな災厄もいつかは終わり、そして、繰り返すのだ。


防災図上演習「徳之島」

防災アラカルト(1)から

2020年8月26日

杉山一郎

 

 新型コロナ禍の中、防災図上演習で「徳之島」に行ってきた。私自身、初めての南西諸島になる。目的は、天城町行政職員向けの地震版状況予測訓練である。

 この訓練は、発災時に行政職員が所定の担当部署に参集するための問題や課題を図上で行う訓練である。大切なことは災害イメージを正しく理解できているか、行政職員としての役割が理解できているかなどについて、6 名程度の班ごとに話し合いながら、図上で行う防災訓練の一種である。

 

 近年の災害では、行政職員といえども災害に巻き込まれることが多いのが実情で、家族を亡くしたり、自身が負傷したり、災害は人を選ばずにその区域全体に容赦なく襲って来る。行政職員は、どんな時も市民のために自分に課せられた役割を果たさなければならない。それは、何の前触れもなく、地震災害という緊急性の高い条件下で、難しい問題を判断し、対応しなければなりません。また、行政職員としての責任感、使命感はストレスの対象にもなるようです。心のケアを含め、課題が多いのが現状と理解しています。

 

 さて、鹿児島県大島郡徳之島は、鹿児島県本土から南南西に約450㎞の奄美群島にあり、南北約25㎞、東西13㎞の南北に延びる離島である。島内には徳之島町、伊仙町、天城町の3町があり、徳之島町は東の太平洋に面し、西の天城町は東シナ海に面している。南の伊仙町は太平洋と南シナ海の両方に面している。

 今回訪ねた天城町は、人口5,830 人;世帯数3,085 人(R2.7.1)、気候は温暖な亜熱帯海洋性(平均気温は21.6 度)で、降雨量(年降水量は1912mm)が多く、6月頃から10月頃までは台風の常襲地帯として知られている所となります。

 徳之島の概観の地形は山地と台地からなり、北部の天城岳(533m)、中央部の井之川岳(645m)、南部の犬田布岳(417m)などを中心として南北に連なる山塊が形成されている。山地のすそ野は平坦な台地となり、奄美群島最大の耕地面積を誇るサトウキビ畑などがある。低地は真瀬名川、秋利神川、亀徳川、大瀬川などの諸河川沿いと河口に若干ある程度で、海岸線とは急崖を持って接している。

 

 天城町には波の侵食作用で形成された景勝地の犬の門蓋(いんのじょうふた)という海蝕洞(写真①,②)や北部にムシロ瀬という岩石海岸(海蝕台(写真③))がある。また、徳之島町の北部には、付加体に混成したメランジュ堆積物(写真④)が観察できる金見崎がある。


写真④のメランジュは、泥岩(頁岩?)層 中に砂岩が混合している。
写真④のメランジュは、泥岩(頁岩?)層 中に砂岩が混合している。

 過去の災害を振返ると、奄美大島東方の海域では1900年以降、現在までに、M7.0以上の地震が8度発生しているようだ。

 

 一つは、1901年6月24日(明治34年)(M7.9) 奄美大島近海地震であり、被害等に関して、震域が広いわりには、被害は少なく、名瀬市内で石垣の崩壊等の小被害程度とされる。もう一つは、1911 年6月15 日(明治44 年)(M8.2)喜界島近海地震である。被害に関しては、喜界島で全壊住家401,死者1,石垣破損3千箇所,奄美大島で全壊住家11,徳之島で崖崩れ全壊住家5,死者5等ということだ。この海域では

 1901 年から1914 年の間に集中して大きな地震が発生しているのが特徴的だ。また、M6.0 以上の地震となると、1900年以降2019年まで、38度発生している。(鹿児島県地域防災計画の地震履歴より)

 南西諸島の太平洋側ではフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込んでいる琉球海溝がある。そのため、地震はプレート境界型で、一旦、地震が起これば、津波の発生も懸念される地域と言える。記録では、ここ100 年くらい、奄美大島近海では大きな地震は来ていないようであるが、いつ来てもおかしくない地域なのかもしれない。また、徳之島町を海から見たとき、東日本大震災を想起した。それは、狭い入り江に町が形成されている景観が、大震災前の東北の街並みを連想させたことにある。

 

 今回の研修は、新型コロナ禍の中で実施したが、3密を避けることが必要となれば、今までのような図上研修の在り方も変えなければいけない時代なのかもしれない。私自身も今回の研修を最後にしばらく研修の参加を見合わせるつもりでいる。今は、新型コロナ禍の終息を願うばかりという心境である。