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2021.12.6気仙沼市「地域版タイムライン研修」に参加して

2020.8.26「防災アラカルト(1)」杉山編

気仙沼市「地域版タイムライン研修」に参加して

更新 2021年12月1日

杉山一郎

  気仙沼を訪れるのは今回で3回目と記憶している。何といっても「2011年の津波災害」を想起させることが大きい。私たちが津波を映像上で実感したのは、恐らく「2004年12月のスマトラ島沖大地震(海溝型地震で海底面の亀裂延長約45km);死者行方不明者約30万人(M)9.0(2005年2月米国地質調査所)」ではないだろうか。バンダアチェ市街地を激流のごとく押し寄せてくる津波から逃げ惑う人々の姿は衝撃的であった。そして、数年後、その姿をこの日本で見ることになることなど、想像すらできなかった。

 東日本大震災を専門家たちは、数千年に一度の大津波と言うが、人生80年とすれば、少なくとも十数回生まれ変わらないと遭遇しない大津波である。その経験を伝承しようとか、語りつなごうとする人たちの姿勢は素直に応援しなければならないが、数百年から数千年の時を経てどうなるのか、実際のところ、誰もが予測できないことであろう。それゆえに、どんなに辛く、悲しい出来事、思い出も時に忘れてゆくのが「人」というものではないか。 そして、どんな記憶も歳月人を待たずというところか。

 

 今、地球上の多くの人たちは、地球温暖化が諸悪の根源であるがごとく思われているようだ。自然科学を勉強した私には自然の摂理と考えるのが適切ではないかと思うところもあるが、現実的な問題は、気候変動による海水面の上昇が続くと、今世紀末には世界の数億人に影響し、都市機能不全に陥るとされることだ。ICPPの予測通り、このままの気候変動が継続すれば、多くの人たちが数十年後、いや数百年後、住むところを追われ、そして、高潮や高波、暴風雨などの気象災害で都市機能が麻痺するところを目の当たりにするのかもしれない。

 

 世界的な広がりを見せる自然災害の猛威に対峙したとき、今を生きる私たちに何ができるのか、何をすればいいのかなど、地域が一丸となって気象災害に立ち向うためのツールとして「地域版タイムライン」の研修を行うことになった。研修の対象者は、気仙沼市の地域住民(行政、自治会、民生委員、 消防団など)である。

 

 今回の地域住民対象のタイムライン研修は、住民ひとり一人が災害時の災害情報(警戒レベル)に接したとき、①いつ、②誰が、③何をするなどを平常時の備えを踏まえて、それらを地域で整理、収斂し、地域での連携を確認するのが目的とされる。

写真1 河川沿いの狭隘な空間に住居が密集
写真1 河川沿いの狭隘な空間に住居が密集

 そこで、気仙沼市の災害履歴(風水害)を簡単にまとめてみた。

 浸水被害は、主に、沿岸の埋立地や低地部で起きているようだ。浸水被害の発生は「100mm以上の日降水量」で多く、特に、大川沿いでは上流部で「150mm」以上の日降水量でも発生することが多いとされる。

 明治43年8月から平成25年7月までの災害記録を省察すると、日雨量100~150㎜の降雨で、道路の冠水や建物の浸水被害が発生している。また、目安となる大雨が降ると、大川や鹿折川の氾濫の危険度が高くなり、近年では、平成24年5月には鹿折川が決壊した。

このような災害が発生する町の住環境と地形的特徴との間には、次のような課題がある。

 

①氾濫原を取り巻くように土砂災害危険区域が張り付いている。氾濫原から外へ避難する時には、必ずと言っていいくらい土砂災害危険区域を通らないと避難できない構図となっている。

②三陸鉄道に土石流危険区域がかかり、鉄道が寸断される危険区域がある。

③気仙沼湾周辺の沿岸道路には土石流が流れ込む危険区域が散在する。

④鹿折川に沿う34号線沿いでは、鉄道、道路が土石流災害危険区域に当たる。

⑤市街地は概ね洪水危険区域に指定されている。

 

 気仙沼市に限らず、地域の住環境や地形地質条件、社会環境などが錯綜する狭隘な地域で、どのように避難計画を描くのか難しい問題と言える。似て非なるものが自然災害である。一度の経験が次の災害の教訓となるわけではない。人は決して自然に起こる現象に対峙することはできないということだ。

写真2 斜張橋を照らす日の出(大島方向)
写真2 斜張橋を照らす日の出(大島方向)

 最後に、気仙沼市の住民は、三陸海岸(リアス式海岸)という特殊な地形条件の中で社会生活を営んでいる。柳田邦男は1978年1月の伊豆半島沖地震の際、山が迫った海岸部では、「人々は心配していた津波によってではなく、山崩れに襲われて犠牲になった」としている。(柳田邦男「災害情報を考える」)

 この地方で最も危険度が高いのは、複合的に発生する土砂災害であろう。この特殊な地形条件に注意を払うことが命をつなぐことになるのかもしれない。災害と共存する社会とは、地形の歴史を理解し、優しく接していくことではないだろうか。

 世界的に災害の多発する時代にあって、地域の人たちが、沛然と降り注ぐ大自然の猛威もいつか溶解し、そして、時が日常を取り戻すことを信じて、自然災害に向き合ってほしいものだ。どんな災厄もいつかは終わり、そして、繰り返すのだ。


防災アラカルト(1)

2020年8月26日

杉山一郎

 

 新型コロナ禍の中、防災図上演習で「徳之島」に行ってきた。私自身、初めての南西諸島になる。目的は、天城町行政職員向けの地震版状況予測訓練である。

 この訓練は、発災時に行政職員が所定の担当部署に参集するための問題や課題を図上で行う訓練である。大切なことは災害イメージを正しく理解できているか、行政職員としての役割が理解できているかなどについて、6 名程度の班ごとに話し合いながら、図上で行う防災訓練の一種である。

 

 近年の災害では、行政職員といえども災害に巻き込まれることが多いのが実情で、家族を亡くしたり、自身が負傷したり、災害は人を選ばずにその区域全体に容赦なく襲って来る。行政職員は、どんな時も市民のために自分に課せられた役割を果たさなければならない。それは、何の前触れもなく、地震災害という緊急性の高い条件下で、難しい問題を判断し、対応しなければなりません。また、行政職員としての責任感、使命感はストレスの対象にもなるようです。心のケアを含め、課題が多いのが現状と理解しています。

 

 さて、鹿児島県大島郡徳之島は、鹿児島県本土から南南西に約450㎞の奄美群島にあり、南北約25㎞、東西13㎞の南北に延びる離島である。島内には徳之島町、伊仙町、天城町の3町があり、徳之島町は東の太平洋に面し、西の天城町は東シナ海に面している。南の伊仙町は太平洋と南シナ海の両方に面している。

 今回訪ねた天城町は、人口5,830 人;世帯数3,085 人(R2.7.1)、気候は温暖な亜熱帯海洋性(平均気温は21.6 度)で、降雨量(年降水量は1912mm)が多く、6月頃から10月頃までは台風の常襲地帯として知られている所となります。

 徳之島の概観の地形は山地と台地からなり、北部の天城岳(533m)、中央部の井之川岳(645m)、南部の犬田布岳(417m)などを中心として南北に連なる山塊が形成されている。山地のすそ野は平坦な台地となり、奄美群島最大の耕地面積を誇るサトウキビ畑などがある。低地は真瀬名川、秋利神川、亀徳川、大瀬川などの諸河川沿いと河口に若干ある程度で、海岸線とは急崖を持って接している。

 

 天城町には波の侵食作用で形成された景勝地の犬の門蓋(いんのじょうふた)という海蝕洞(写真①,②)や北部にムシロ瀬という岩石海岸(海蝕台(写真③))がある。また、徳之島町の北部には、付加体に混成したメランジュ堆積物(写真④)が観察できる金見崎がある。


写真④のメランジュは、泥岩(頁岩?)層 中に砂岩が混合している。
写真④のメランジュは、泥岩(頁岩?)層 中に砂岩が混合している。

 過去の災害を振返ると、奄美大島東方の海域では1900年以降、現在までに、M7.0以上の地震が8度発生しているようだ。

 

 一つは、1901年6月24日(明治34年)(M7.9) 奄美大島近海地震であり、被害等に関して、震域が広いわりには、被害は少なく、名瀬市内で石垣の崩壊等の小被害程度とされる。もう一つは、1911 年6月15 日(明治44 年)(M8.2)喜界島近海地震である。被害に関しては、喜界島で全壊住家401,死者1,石垣破損3千箇所,奄美大島で全壊住家11,徳之島で崖崩れ全壊住家5,死者5等ということだ。この海域では

 1901 年から1914 年の間に集中して大きな地震が発生しているのが特徴的だ。また、M6.0 以上の地震となると、1900年以降2019年まで、38度発生している。(鹿児島県地域防災計画の地震履歴より)

 南西諸島の太平洋側ではフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込んでいる琉球海溝がある。そのため、地震はプレート境界型で、一旦、地震が起これば、津波の発生も懸念される地域と言える。記録では、ここ100 年くらい、奄美大島近海では大きな地震は来ていないようであるが、いつ来てもおかしくない地域なのかもしれない。また、徳之島町を海から見たとき、東日本大震災を想起した。それは、狭い入り江に町が形成されている景観が、大震災前の東北の街並みを連想させたことにある。

 

 今回の研修は、新型コロナ禍の中で実施したが、3密を避けることが必要となれば、今までのような図上研修の在り方も変えなければいけない時代なのかもしれない。私自身も今回の研修を最後にしばらく研修の参加を見合わせるつもりでいる。今は、新型コロナ禍の終息を願うばかりという心境である。