解説:首都東京の地形 ―武蔵野台地の区分(最新版)を紐解く―

NPO法人首都圏地盤解析ネットワーク

更新2020.04.22

1.はじめに

私たちが東京の下町の上空から西方を見渡すことができたら,図1のような武蔵野台地の地形を眺めることができる.もちろんこの様に色分けはされていないが,地形の大きな枠組みを知ることができるに違いない.

 色分けは同じ年代のものになされているので,それぞれが形成された順を追って行けば,武蔵野台地の地形がどのようにして形成されてきたのかを知ることができるはずである.

 

2.武蔵野台地は扇状地と海岸段丘からなる

 図1を一見すると,武蔵野台地の地形は,褐色で塗られた都心部の新宿や渋谷付近の台地群と,青梅付近から半分広げた扇のように広がる扇状地からなっていることが分かる.褐色の台地は所々で切れて扇状地の続きが流れ下っている.褐色の台地は海水準が高かった時代にできた海岸段丘で,扇状地は多摩川が形成した地形である.

図1 3Dで俯瞰する武蔵野台地と周辺の地形

(東から西方を俯瞰。図3を3Dで表示したもので,縦方向を強調している)

[この図の作成には,国土地理院長の承認を得て,同院の基盤地図情報を使用した(承認番号:令元情使,第660号)]

 図1は武蔵野台地北部の上野駅~赤羽駅付近の上空から,西方の青梅(オウメ)付近を見下ろしたもので,武蔵野扇状地の地形がよくわかる.青梅は多摩川が山間部を出て平野部に出る位置にあり,武蔵野扇状地の成り立ちを考える時に極めて重要な位置を占める.武蔵野台地の主体をなしているのは,その標高約190mの青梅付近を扇の要とする武蔵野扇状地と立川扇状地であり,これら扇状地は関東山地を流れ下った多摩川が青梅の東方に形成したものであることが明瞭に読み取れるだろう.現在の多摩川は,この扇状地を削り込んで,その南縁部を扇状地とは無関係かのように流下しているが,帯状に細かく区分された武蔵野台地の地形の要の方向をたどっていくと,どれも標高190mの青梅付近に収斂(シュウレン)するのである.どれもといったが,図1には扇状地が細い帯状に色分けされている.色ごとにその形成時代は異なっている(後述).

図2 RCマップで見る首都圏の西縁の山地と麓の扇状地

 埼玉県南部戸田市付近から富士山の方向を見る

 縦を10倍,200mまでは10mごとに,200m以上は100mごとに色付けを繰り返している.最初の赤~紫色の帯が標高100m,山際の2つ目の赤~紫色の帯が標高200mにあたる.《NPO法人首都圏地盤解析ネットワークHP》

[この図の作成には,国土地理院長の承認を得て,同院の基盤地図情報を使用した(承認番号:令元情使,第928号)]

 図2はRCマップとよばれる最近考案された地形図である.図2を見ると,関東平野の西側を区切る丹沢山地や関東山地の麓には同様の扇型の地形が並んでいる.山地から河川によって運搬された礫(径が2㎜以上の粒子)が堆積してできたものである.(南から:相模川(富士山3776m),多摩川(大菩薩嶺2057m),荒川(甲武信ヶ岳2475m)等).  

図3 武蔵野台地とその周辺の地形区分(最新版)

  武蔵野台地は遠藤ほか(2019)1)を基に.大宮台地は中澤・遠藤(2002)2),下総台地は杉原(1970)3),相模原台地は久保(1997)4)を参考に作成.白地の部分は沖積面および未区分の範囲

 [この図の作成には,国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号:令元情使第660号)]

拡大版

NW(北西部)
NW(北西部)
SW(南西部)
SW(南西部)
NE(北東部)
NE(北東部)
SE(南東部)
SE(南東部)

 私たちは武蔵野台地の地形を新たに区分した図3を作成するにあたり,国土地理院から公開されているデジタル標高モデル(注1)を用い,1mごとの等高線の入った地形図を作成した.よく使われる国土地理院の2.5万分の1の地形図よりはるかに詳しい地形図である.この地形図や同じデータから様々な強調等を加えた地形図を用いて,地形の区分を行った.同時に,従来から各地形の年代を決定するための多くの調査が行われており,そうした調査結果と1m等高線地形図から作成した地形区分を照らし合わせて,細分された区分単位の年代を求めた.「第四紀研究」という専門誌に掲載された遠藤ほか(2019)2)は,その詳細を検討し記載した論文であるが,内容的には専門家向けであるため,図3で代表される地形区分図に絞って,解説を加えるものである.

 この図3には青梅を扇の要(扇頂部という)とする扇状地と,新宿や渋谷のある淀橋台地や荏原台地などの武蔵野台地東部にある海岸段丘とがある.海岸段丘は横浜の下末吉台地と同じ時代のものであるので,下末吉面,あるいはS面とよばれる(後述).

 さて,皆さんには図3の拡大版をぜひ見て頂きたい.全体図では1m等高線は見にくいが,拡大版の方では読むことができる.拡大版をさらに拡大してご覧いただきたい.

*等高線の見方についての注意 扇状地のように緩く傾斜する平坦な地形上の等高線は,同心円状のきれいな等高線が並行して並ぶはずである.しかし実際は等高線はジグザグしている.流水による侵食の影響や,人為的な影響もある.扇状地の平坦面が形成された後に小河川が発達するなど,様々な変化が生じる.地形区分の基本は各平坦面が形成された時の面を想定しているので,面が形成された後に生じた起伏(浅い谷など)は,埋め戻して考える必要がある.ここには個人差が生じる可能性が強いと言える.

2020.04.22

 この多摩川が形成した扇状地の地形は,青梅の約7㎞東方に狭山丘陵があるために複雑になる.多摩川はここで狭山丘陵の北へ進むか南へ進むかを選ばねばならない.所沢市、入間市などが位置する黄色の扇状地(金子面と呼び,この中では最も古い)は狭山丘陵の北側だけに分布する.後にその中央部を多摩川が流れたために,その侵食の結果南北に分かれているが,この古い扇状地を復元すると図4-1のようになる.この扇状地を古期武蔵野扇状地とよぶ.2段に分けられ,年代は約25万年前および18万年前とされている.所沢の市街地はこの古期武蔵野扇状地の上にある.

図4 各時代の武蔵野扇状地を復元した図(各図とも北は右側)

 [本図の作成には国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号 令元情使 第660号)]

 

4-1 古期武蔵野扇状地の時代(25万,18万年前)

4-2 新期武蔵野扇状地の時代(9万~6万年前)

4-3 立川扇状地の時代(5万~1.2万年前)

 

 図4-2は9万年~6万年前に形成された新期の武蔵野扇状地(単に武蔵野扇状地とよぶ)の分布を示す.ここでは多摩川は狭山丘陵の南側に流路を変え,広大な扇状地を形成した.中央線が長く直線を示す国立駅(クニタチ)のやや東から東中野駅付近まで20㎞余りにわたり起伏のない平滑な地形を連続させる. 

 この部分の扇状地は武蔵野面(M面)と呼ばれるが,図3に示されるように,小平面(ピンク色)、目黒面(橙色),石神井面(濃紺色),仙川面(紺色),田柄面(青色),深大寺面(薄青色),黒目上位面(緑色),黒目下位面(薄緑色),十条面・中台面(紫色)の9段に細分される.ピンク色の小平面はこの中では最も古く,約9万年前である.《--扇状地や--面という呼び方については注2参照》

 13~12万年前に海水準の上昇があってS面ができた後,多摩川による扇状地の形成が進み,まずこの小平面が形成された.最も広く,また9面の中では最も高い位置にある.

 小平面の後,9万年前から6万年前の間に短冊状の細長い段丘面が次々と形成されたのは,小刻みな上がり下がりを伴いながら基本的には低下していった海水準の変動のためである(当時は寒冷な最終氷期の前半にあたる).中台面(紫色)の時代には海水準は今より100m近くも低下していたと考えられている.

 図4-3に示す通り,5万年~1.2万年前には,青梅を扇頂とする立川扇状地(図1,図3の黄緑色)が立川市に向けて広く発達し,新期武蔵野扇状地の上流側を侵食してしまった(上流部では上を覆って隠してしまった).図4-2と図4-3を比較すると侵食された(隠された)部分が分かるように,現存する武蔵野扇状地は,青梅から12㎞程下流側から現れる.その多摩川による侵食の痕跡は国分寺崖線(コクブンジガイセン)とよばれる明瞭な崖として有名である.この崖線は,国立駅付近から東に向きを変え,国分寺を経て,武蔵野台地の南縁沿いに約20㎞も続く.

図5 国分寺崖線のイメージ図(礫層の上の褐色部は関東ローム層)

 図1には,青梅から出発するようには見えない部分がある.武蔵野台地の北縁部,荒川の低地に面する扇状地の末端部に細い紺色や紫色の帯をなしている.紺色で塗られた大宮台地と同じ時代のもので,荒川・利根川が形った大宮台地と同じ向きになる.紫色の部分も荒川や入間川が形成したと考えられる.東上線はほぼこの地形に沿って走る.つまり,武蔵野台地には多摩川ではなく,荒川や入間川が形成した部分もあるということになる.

 

3.都心に位置する海岸段丘面,S面(13~12万年前に形成)

 東京の都心部が位置する海岸段丘面は,南から田園調布台、荏原台,淀橋台、小さいが大山台,和光―徳丸台などとよばれる.これらの分断された台地は扇状地ではなく,13~12万年前に海水準の上昇があって海岸~海底に形成された海岸段丘である.

 これらをあわせてS面と呼ぶ.図6には12万年前の海岸線の位置を推定して示した(青の実線). これらS面は,武蔵野面に比べて時代が古い分,縦横に谷が発達していて,もともとは存在した平坦部はごく一部に残っているだけである.都心部に坂道が多いのはこのためである.

図6 約12万年前の海岸線(青色実線)の推定

 [本図の作成には国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号 令元情使 第660号)]

4.最新の地形区分図から読む武蔵野台地のなり立ち

 古期武蔵野扇状地,海岸段丘面(S面),新期武蔵野扇状地、立川扇状地は,関東ローム層とよばれる褐色の砂混じりの泥で一様に覆われている.時代が古い面程関東ローム層は厚く,また,年代決定に使われるテフラが含まれる.この関東ローム層は箱根火山や富士火山,北関東では赤城火山,浅間火山などから飛んできた火山灰が降り積もった後,時代を経て風化が進んだものである.

 扇状地面であれば関東ローム層の下に礫層がある(図7-1).礫層は厚さ5m前後のことが多い.古期の扇状地面では礫層が厚くなる傾向がある.

 S面の場合には通常海岸部に堆積した砂層がある.またその下位にはやや深い海に堆積した泥(シルト・粘土)が堆積する場合がある(合わせて東京層と呼ばれる:図7-2).こうした礫層や泥層にもテフラが挟まれることがあり、それを手掛かりに年代が決定される.

図7-1 武蔵野台地を横切る地質断面図(府中―小平―清瀬)

図7-2 淀橋台(S面)の地質断面図  左:新宿区河田町 中央:国立競技場 右:代々木公園

 

 13~12万年前の海水準の上昇はグローバルなもので,MIS 5e(MIS5.5ともいう)の間氷期である.この時の海は関東平野全体に広がり(下末吉海進),淀橋台を代表とする東京層からなるS面を形成した.東京層は千葉や埼玉では木下(キオロシ)層と呼ばれている.

 

図8 海水準変動,テフラ、および段丘面や扇状地面との関係

―年代が分かっているテフラ(火山灰)によって海岸段丘面や扇状地面の年代を推定し,さらにその時の海水準変動との関係を明らかにする―

 

 この後,海は徐々に低下していき,最終氷期に移るが,その前半の武蔵野期は海水準の低下はそれほど著しくはなく,武蔵野扇状地はこの時期に形成された.その中間に成増面(大宮面)が形成されている.最終氷期の後半は立川期にあたり,海水準は低下して,武蔵野扇状地を深く切り込む立川扇状地(立川面)が形成された. このように,各地形の形成は海水準変動とよく対応していることを見る必要がある(図8).

注1 《デジタル標高モデル》 航空レーザ―測量によって,非常に正確な測量が可能になっている.国土地理院は水平的な位置と標高をデジタル標高モデル(DEM)として公開している.

注2 《--扇状地や--面という表現について》 海底や,河川の周辺には平坦面が形成される.実際に平坦部をもつ台地を淀橋台などとよぶが,現実には時間の経過とともに侵食が進み,地表は起伏をもつようになる.淀橋台のようにかなりの起伏をもっていても,堆積した時の平坦面を復元できる.このように堆積時の平坦面を基準として地形の発達を考えるのが通例であり,S面(下末吉面),小平面などの呼び方をする.元の平坦面を想定したもので,形成期とは元の面が形成された時と限定できることになる. これに対して,-―――扇状地という呼び方はその地形のでき方(成因)を表現した用語であり,武蔵野扇状地であり,また武蔵野面(武蔵野段丘面)でもある,というように用いることができる.

引用文献

1)遠藤邦彦・千葉達朗・杉中佑輔・須貝俊彦・鈴木毅彦・上杉陽・石綿しげ子・中山俊雄・舟津太郎・大里重人・鈴木正章・野口真利江・佐藤明夫・近藤玲介・堀伸三郎(2019)武蔵野台地の新たな地形区分.第四紀研究, 58,6.

2)中澤努・遠藤秀典(2002)大宮地域の地質.地域地質研究報告(5慢分の1地質図幅),産総研地質調査総合センター,41pp.

3)杉原重夫(1970)下総台地西部における地形の発達.地理学評論,43,p703-718.

4)久保純子(1997)相模川下流平野の埋没段丘からみた酸素同位体ステージ5a以降の海水準変化と地形発達.第四紀研究,36,p147-164.