3Dで東京東南部の地形を俯瞰してみよう

修正2019.08.15

2019.08.06

地形を3Dにして斜め上空から俯瞰すると、その特徴をよく捉えることができる.

[図の作成には,国土地理院長の承認を得て,同院の基盤地図情報を使用した(承認番号:令元情使,第660号)]  

 

図1
図1

 図は,新宿を頂点に皇居から品川付近まで続く三角形の台地,淀橋台と,その南に位置する目黒台,さらに南に位置する荏原台の3つの台地を比較してみようとするものである.これらを東側から西に向けて眺めたものである. 

 

図2
図2

 淀橋台と荏原台は12万年前頃にこの一帯が海になっていた時代の海底が露出するもので,S面ともよばれる.多摩川を挟んで南側にある下末吉台地と同じ地形であるため,下末吉のSをとっている.

 台地といっても表面は非常に起伏に富んでいる.多数の小規模な谷が入り,坂が多い.

 

 

図3
図3

 これに対して,その間にある目黒台はかなり平坦である.淀橋台との境界沿いの白い部分を目黒川が流れている。ここは武蔵野面とよばれ,約9万年前から7万年前に形成された.その当時は多摩川が淀橋台と荏原台の間を抜けて流れていたのである.

 大井町の駅の東側は,孤立した台地になっている.この東大井の小さな台地は、ともに台地の麓にある品川駅と大森駅を結ぶ直線から東に突出していて,やや奇妙である.この台地の辺りを明治時代に作成された迅速図という地形図で確認すると,孤立した台地は西側につながっている.現在,JR東日本の車両基地(東京総合車両センター)になっている部分は,昔は台地であったことになる.立会川が蛇行するところで,その左岸側の台地であったので,今は孤立した大井町駅東側の台地は,立会川の蛇行に沿って“象の鼻”のように長く延びる目黒台の続きであったことになる.“象の鼻”の先端部に来福寺というお寺がある.


 多摩川は目黒台を流れた後,さらに数千年後荏原台の南側に河道を移し久が原台を形成した.途中田園調布台との間の狭い通路(九品仏付近)をすり抜けるように通っている(約8万年前)*. 田園調布のやや南の鵜の木付近には細長い段丘がかろうじて残存しているが,6.5万年前ごろの多摩川の河床の跡で,中台面(紫色)とよばれる.さらに5~2万年前には多摩川は黄緑の立川面を形成した.中台面はほとんど立川面によって削られてしまった.鵜の木の辺りでは立川面は沖積層の下に埋まっている.

 


*多摩川がわざわざここを通らねばならなった理由がある.多摩川が田園調布台を南に迂回できなかったのは,田園調布台がはるか南の下末吉台とつながっていた,つまり多摩丘陵が今の多摩川の位置まで存在した などの障害が存在したからである.最後の図の左方に府中市の 浅間山(センゲンヤマ) がある(黄緑の立川面上から30m近くそびえたっている).浅間山は多摩丘陵と同じ地層でできた残丘であって,かつては多摩丘陵がここまで存在した証拠である.

 

 このように過去10万年間の間に多摩川の位置は,次々と多摩丘陵の北縁を侵食しながら南方に移ってきて,今の位置に至ったのである.

 

 因みに,明治時代の地図(迅速図)を見ると,東大井の台地の突端(“象の鼻”の先端)にある来福寺の前面には東海道を挟みすぐに海が広がっている.さぞかし絶景であったろう.海に最も突き出た東大井の台地の崖下には,今は京浜急行線の鮫洲駅がある.鮫洲と言えば運転免許場でおなじみの場所であるが,駅から1㎞以上広がる埋立地にある.縄文海進の時代に遡ると,鮫洲駅のある崖下に海岸線があった.東大井の台地は縄文海進の時代から埋立地が造成されるまでの長い間,直接海に面していたであろう.

 このように,淀橋台から目黒台,荏原台,久が原台まで,その東端がスパッと切れているのは,縄文海進の海岸線,海食崖の存在を示している.縄文海進の時代には上記海岸線に沿って礫州が形成されている.東海道や東海道線が敷設されるなど,土地利用上も重要な意味を持ってきた.古典落語の有名な演目「芝浜」の舞台でもある.