宝永4年11月23日(西暦1707年12月16日)に発生した富士山の噴火は宝永噴火とよばれ,噴火を繰り返してきた富士山の,もっとも最近の噴火として,よく知られている.同時にこの噴火は,最近約1万年間の新富士火山の噴火の中で最大規模の,爆発的噴火であった.この噴火後約310年たつが,富士山はこの間静穏であった.この1万年間に富士山は30数回の噴火をしてきたので,そろそろ次の噴火を起こしても不思議ではない.私たちは富士山の過去の噴火がどのようなもので,どのような影響を与えたのか,宝永噴火だけでなく詳しく知っておきたい.以下に登場する故宮地直道さん(元日本大学文理学部教授)は新富士火山の噴火史を明らかにするため,その生涯をささげられた.故宮地直道さんは卒業論文で宝永噴火の研究に携われた.その成果は学会誌に投稿された.大学院では新富士火山の活動史全体に及び,成果は博士論文に結実し,さらに学会誌や多くの書物に掲載された.富士山のハザードマップの基礎データともなった.
その後,農林水産省をへて,出身の日本大学文理学部地球システム科学科で教授として教鞭をとることとなり,多くの人材を育ててきた.病のため54才という若さでこの世を去ったのは惜しまれてならない.
以下は,宮地直道さんの教え子,杉中さんからの一文である.
なお,写真は宮地さんがヘリコプターから撮影された宝永第一火口である.
写真1,2 宝永第1火口
宝永噴火では3つの火口が形成された.そのうち最も高い位置にあるのが第一火口.山頂側に岩脈が露出する.ヘリコプターから宮地直道氏撮影.
宝永噴火と宮地先生
杉中 佑輔
宝永噴火と聞いて真っ先に思い浮かぶのは,大学時代に巡検で訪れた富士山御殿場口登山道五合目近くの太郎坊で行った露頭調査だ.軽石からスコリアに遷移していく様子や同じスコリアでも層準によって密度や表面形態が異なることが,噴火ステージや火口の違いによるものだということを恩師である宮地直道先生に現地で教えていただいた.
この太郎坊では,1cm程度のスコリアや軽石が2m以上積もっている様子を確認できた.
←写真3 太郎坊にて宝永噴火について説明をする宮地先生(撮影:宮地研卒業生)
下部の茶色に見える部分が宝永噴火直前の土壌層,その上を宝永噴火で噴出した軽石・スコリアが覆う.
その数年後,宮地先生から宝永スコリアの粒度分析を頼まれた.手渡された試料は耳掻き一杯にも満たない粉で,くしゃみ一つで取り返しのつかないことになりそうなものだった.この試料は伊能忠敬の親戚の邸宅(千葉県香取市)で宝永噴火当時に採取されたものだと聞いた.江戸時代にもサンプリングをしていた人がいた事に驚いたと同時に火口近くの太郎坊と千葉県でのスコリアのサイズや量の違いを思い知らされた.
火山灰がどこでどれだけ降り積もったかという「点」の情報は極めて重要であり,アメダスのデータのように「点」が増えるほど、より正確な等層厚線図(アイソパック)を引くことが出来るようになる.それはその噴火で噴出した火山灰の総噴出量の見積もりを可能とし,ハザードマップ作成において重要な情報となる.
富士山のハザードマップは歴史時代最大の溶岩流噴火である貞観噴火と最大の火山灰噴火である宝永噴火の研究成果を基に主に作成されているが,その礎となった研究を行っていたのが他でもない宮地先生だ.「富士山の謎を探る」52~69ページに宝永噴火についてまとめられており,さらに噴火推移については宮地ほか(2011)に詳述されているので,これを機に是非とも御一読頂きたい.
引用文献
宮地直道・金丸龍夫・菅野 歩(2011)富士火山 1707 年噴火の推移とその噴出物の物理化学的特性の経時変化.日本大学文理学部自然科学研究所「研究紀要」,(46),219-240.
宮地直道(2006)昼間の江戸を暗闇にした大噴火ー宝永噴火.富士山の謎を探る,築地書館,52-69.
富士山の謎をさぐる 富士火山の地球科学と防災学
日本大学文理学部地球システム科学科教室(編)
ISBN-10 : 480671318X,ISBN-13 : 978-4806713180
出版社:築地書館(株)
発売:2006年3月1日
ジャンル:
富士山の地球科学と防災を中心に、富士山の全てを多くの方々にわかりやすく知っていただくことを目的としてまとめられたものである。富士山の生い立ちや噴火現象だけでなく、気象、水、富士山周辺の土地利用、土壌やその生み出す農産物富士山ハザードマップまで富士山に関する最新の知識を幅広く盛り込んである。
読者の皆さんが、本書によってさらに広く富士山に関する知識を深め、富士山の火山防災は火山の恵みについて多くのことを知っていただければ幸いである。(本書「はじめに」より)
1 富士は日本一の山
1 富士山が日本でいちばん高いわけ
2 富士山の土台をなす大地--島弧と島弧の衝突帯
【コラム】日本列島の骨組みをつくる地層--付加体とは?
3 富士山はなぜそこにあるのか--富士火山の地下構造をさぐる
【コラム】プレートテクトニクスと中央海嶺
4 富士山の生い立ち
【コラム】富士山を形づくる岩石
5 富士山のマグマとマグマ溜り
【コラム】地下のマグマの存在を知るには
2 噴火する富士山
1 昼間の江戸を暗闇にした大噴火--宝永噴火
【コラム】火山灰と溶岩の体積はどうやってくらべる?
2 裾野を埋めた溶岩の海--青木ヶ原溶岩
【コラム】パホイホイ溶岩とアア溶岩--玄武岩質溶岩の表面形態
3 大崩壊した富士山--御殿場岩屑なだれ
4 富士山の噴火と巨大地震
3 富士山の空と水
1 富士山の笠雲--富士山気候気象学入門
【コラム】富士山の「農鳥」ってなに?
2 富士山をめぐる水
3 富士五湖のなぞ--山中湖を例として
4 富士山の火山災害と恵み
1 富士山を宇宙からみれば--リモートセンシングによる富士山
2 富士山の火山災害と防災--ハザードマップとは?
【コラム】ハザードマップとは?
【コラム】富士火山ハザードマップができるまで
【コラム】火山災害のいろいろ
【コラム】富士山監視ネットワーク--リアルタイム噴火予測をめざして
3 富士山の恵み--豊かさを育む火山灰土壌
5 富士山の火山災害にかんするなんでもQ&A
宝永火口
1707年の宝永噴火は12月15日に始まり,約2週間噴火が継続して,12月31日に終息しました.この噴火を起こした火口について詳しく見てみましょう.
宝永噴火では,3つの火口が残されました.最も大きく形のきれいな第1火口のすぐ下方に接して第2火口,さらに下方に第3火口が位置します.実はこの数字とは逆に第3火口がはじめに形成され、次に第2火口が、最後に第1火口が形成されたと考えられています.それは火口の形に現れていて,第3火口はその後の第2火口によって本来の形がいびつになっています.第2火口も第1火口によって,いびつになっています.最後に形成された第1火口は奇麗な外形を示しますが,その後に宝永山が隆起したため宝永山側が変形しています.
宝永噴火の噴出物は,かなり特殊な性質をもっています.杉中氏の文にある写真3には昔の土壌(褐色)を覆うのは白色の軽石(デーサイト)を主とする層です.これが最初に降った部分です.その上に黒ずんだ灰色の粒子(スコリア,安山岩)が乗っています.さらに上には黒色のスコリア(玄武岩)が乗っています.マグマの性質がこのようにデーサイトから安山岩へ、安山岩から玄武岩へと変化したことになり,ほかに例がないわけではありませんが珍しいことです.
最初の白色の層には,極めて重い岩石の破片が含まれます.輝石やカンラン石などの結晶がぎっしり詰まったもので,ハンレイ岩とよばれます.これはマグマの性質と異なるので,マグマ上昇中に取り込まれた捕獲岩(ゼノリス)とよばれます.
次に写真2を見てください.なぜ,玄武岩・安山岩・デーサイト・ゼノリス(ハンレイ岩)と非常に異なる軽石・スコリア,岩片が噴出したのでしょうか.この写真にヒントがあります.
写真1,2は自然災害と環境問題≫地盤災害・斜面災害のページ≫富士山のスラッシュフロー調査から転載.
URL:http://www.arukazan.jp/endo/web/foundation-slope/fou-fuji-slash-flow.html
宝永火口(左側の馬蹄形)の右隣にもう1つ大きな火口があるように見えますが,宝永山の斜面から発する谷の谷頭部(かなり丸い形)で,当時我々はゼノリス沢と呼んでいました.名前の由来は,ゼノリスとよばれる非常に重い岩片が沢山認められたことです.これは,噴火を起こした高温の玄武岩マグマが,宝永第2・第3火口付近の地下に既に存在していた(少し古い)安山岩マグマやデーサイトマグマと出会い,混合して大噴火が始まったと考えられます.さらにデーサイトマグマの上にゼノリスのもととなったハンレイ岩の岩体があって,この岩体を粉砕し吹き飛ばして噴火が始まったのです.その結果,ゼノリス沢からは沢山のゼノリスが発見されるのです.これはハンレイ岩とよばれるもので,輝石やカンラン石がぎっしり詰まっているので非常に重いので遠くには届きません.ゼノリス沢の直ぐ西側にある第3火口から飛んできたと考えられます.つまり最初の噴火は第3火口からということになります.
このように,宝永噴火を起こした主役は主に第1火口から出た玄武岩マグマで,地下深いマグマだまりから高温の状態で上昇したと思われます.地表に近づいてやや古い時代の安山岩マグマやデーサイトマグマと混合し,最後にハンレイ岩の岩体を突き破って噴火を始めたわけです.以上の考えはMiyaji ほか(2011)に基づいています.
写真3-5 民間航空機から撮影されたもので、山頂から見れば随分下に宝永火口が位置します. 撮影:遠藤邦彦,2009年12月19日10時頃
<参考文献>
Miyaji Naomichi, Kan'no Ayumi, Kanamaru Tatsuo and Mannen Kazutaka (2011) High-resolution reconstruction of the Hoei eruption (AD 1707) of Fuji volcano, Japan. Journal of volcanology and geothermal research, 207, no.3-4, 113-129.
Miyaji Naomichi, Endo Kunihiko, Togashi Shigeko and Uesugi Yo (1992) Tephrochronological History of Mt. Fuji. Volcanoes and Geothermal Fields of Japan, 29th IGC Field Trip Guide Book, 4, 75-109.
2020.11.18 日付を訂正しました.
11月15日は,1986年伊豆大島噴火が始まった日です.
この噴火は,始めは三原山山頂火口(A火口)からの比較的穏やかなストロンボリ式の噴火でしたが,11月21日に突然始まった山腹割れ目噴火は非常に爆発的で,南東から北西に並んだ多数の火口(B,C割れ目火口)から,大量のマグマが噴出しました.こうした経緯から約1万人の住民の全島避難に至りました.
私たち日大調査班は16日にこの噴火の調査に向かう準備をし,17日から現地で調査を開始しました.現地では東大調査団と合流して、合同調査団として,調査の許可を得て,噴火の経緯や噴出物の特性などの調査にあたりました.
写真1 噴火遠望(撮影:遠藤邦彦)
噴火の始まりは11月15日17時25分(気象庁発表)で,三原山山頂火口の南端のA火口から溶岩噴泉を噴き上げました.周囲には“ペレーの毛”と呼ばれる髪の毛のように細長く伸びた火山灰が降りました.
17日,18日には山頂部から溶岩噴泉の状況と火山灰の降り方を観察・調査しました.溶岩噴泉は写真のように,20分おき位に間欠的に繰り返しました.時計を見ながらそろそろ来るぞとカメラを構えて,逃さないように撮影しました.調査時間中に発生した溶岩噴泉のほとんどを撮影しています.時間と共に溶岩噴泉の形態も変化し,バブルのような形態も出始めました.
写真集 ストロンボリ式噴火(撮影:印牧もとこ)
噴泉が15〜20分間隔で絶え間なく吹き上げている。
☆ギャラリーの見方☆
・写真中央の三角をクリック
→スライドショー(自動再生)開始
・写真中央の縦線2本をクリック
→スライドショー(自動再生)停止
・写真右の三角をクリック
→次の写真へ
・写真左の三角をクリック
→前の写真へ
・写真上の交差した矢印をクリック
→画面いっぱいに拡大
戻るときは右上のバツをクリック
・写真下のサムネイル画像をクリック
→その写真へ
噴火前に約200mの深さがあった火口は溶岩湖となって,みるみるマグマで満たされていき,18日にはついに溶岩湖から溢れ出して溶岩流が出始め,アア溶岩としてゆっくり前進していました(写真).19日には溶岩流は三原山の斜面を流下し,カルデラ床に達しました.
写真2 粘性の高いアア熔岩(撮影:印牧もとこ)
図2 山頂噴火による熔岩流の流下過程(遠藤ほか,1987)
11月21日,私たちは主にカルデラ床での火山灰の積もり方を調査していました.
15時過ぎに,遊歩道近くのカルデラ床にヘアークラックを発見しました(写真3).写真の上方、中央右に玄武岩溶岩を切る細い割れ目がありますが,その延長が“ペレーの毛”で覆われた地面を切っていました.降ったばかりの“ペレーの毛”がこのクラックを挟んで分かれています.この細いクラックを千葉達朗さんが追跡し,どうやら餅が膨らむときにできる展張性のクラックであり,すなわち我々は膨らみつつある土地に立っていると考えられました.そこで、予定していた(結果的に割れ目火口が生じた)方向に行くことをやめ,関係機関への通報を検討し始めました.丁度その時に割れ目大噴火は始まってしまいました.
写真3 前日迄の山頂からの噴火で降下した火山灰(主に”ペレーの毛”)を切るヘアークラック(撮影:千葉達朗,1986年11月21日15時ごろ)
11月21日の割れ目噴火は、16時15分に突然始まりました.はじまりは後に大割れ目火口に発達する2つの地点から上がった白い小さな噴煙です.続いて黒い噴煙が上がりました.これは反対側から見ると赤色だったようです.見る見るこれらの噴煙は成長していくので、我々は急いで撤退することにしました.
御神火茶屋から元町港へ急いでいましたが,途中道路の落差10㎝程の開口性亀裂を横切りました(16時35分頃).元町港に着くころ,すでに暗くなり.大規模割れ目噴火は最盛期となっていました(17時ごろ写真4).
写真4 21日に起こった山腹割れ目噴火(撮影:稲葉宏幸)
さらに、17時45分ごろにはカルデラの外の斜面にC火口群が生じ,最終的に11個の火口が形成されました.これらを連ねる割れ目火口群はC火口群ということになります. 御神火茶屋からの帰途に横切った亀裂の延長にあたります.C5火口から流下した溶岩流は元町に向かう谷を勢いよく下ったことも,全島避難の理由の一つになりました.
1986年伊豆大島噴火による噴出物と火口群 単位:mm
<火口>
A 山頂火口(三原山)
B 火口群 B1~B8
C 火口群 C1~C11
以上のように、1986年噴火は、A火口からの比較的穏やかなストロンボリ式噴火を6日間ほど続けた後,突然21日午後にB,C割れ目火口群からの激しい噴火に代わりました(fire curtainの形成)。この両者のマグマの性質は若干異なるので,カルデラ床の下に比較的古いマグマ(SiO2 54-%)があって、そこに新しいマグマ(SiO2 52%)が上がってきてこれを貫いてA火口から先に噴火し、52%のマグマに影響を受けた54-%のマグマがやや時間をおいて21日に割れ目火口から一気に大量に噴出したのだろうと考えられます。この間に、カルデラ床でのヘアークラックが、54-%マグマが地面を膨らませ、出始めようとしていた瞬間を示していたというのは、非常に意味深いことだと思います。
<参考文献>
遠藤邦彦・千葉達朗・宮地直道(1987)1986年伊豆大島噴火をめぐって.採集と飼育,49(8),337-343.
※この噴火については多数の研究報告が以下の特集号にまとめられていますのでご覧ください。
火山第 2 集第 33 巻特集号『伊豆大島 1986 年噴火』,火山学会.
※そこには以下の2篇が含まれています。
遠藤邦彦・千葉達朗・谷口英嗣・隅田まり・太刀川茂樹・宮原智哉・宇野リベカ・宮地直道(1988)テフロクロノロジーの手法に基づく 1986~ 1987 年伊豆大島噴火の経緯と噴出物の特徴.火山 第2集,33(SPCL),S32-S51.
千葉達朗・遠藤邦彦・太刀川茂樹・谷口英嗣(1988)伊豆大島 1986 年噴火の溶岩流.火山 第2集,33(SPCL),S52-S63.
写真6 スコリア(撮影:印牧もとこ)
崩壊源(写真1)から直接下る谷は伝上川で,上述の第1波(岩屑なだれ)は伝上川を約2㎞下り西側から下ってくる濁沢(合流後濁川となる)の谷と合流します(図1).
図1
(Endo et al., 1989に基づく)
この時、伝上川と濁川の間にあった平坦な尾根(溶岩台地:中央台地と仮称)の上を第1波が乗り上げてシマシマ模様を残し,乗り上げなかった本体はそのまま伝上川を下って、濁川の谷に入りました.その結果、溶岩台地(中央台地や左岸台地)の上には第1波の堆積物が残されました(写真2,3,図2).この堆積物は赤褐色や灰色,暗褐色、黒色など多様な色合いを示す縞々を呈していました.私たちは卒論生の町田君や古市君らと共に現地調査を行い,空中写真も参考にして溶岩台地上に残されたシマシマの堆積物や濁川、王滝川の谷を埋める堆積物(山体崩壊に発する岩屑なだれ堆積物)の特徴を記載しました.
写真2
中央台地南部の第1波 (撮影は町田光雄)
写真3
第1波のシマシマ、境界は直線的で混じりあうことがない(撮影は町田光雄)
その結果の一つが町田君が描いた図2です.細長い個々の帯は,色合いを異にする溶岩塊でできていたり,黒色土壌であったり,褐色ロームであったり,帯と帯の間はまじりあうことなくシャープに分かれています(写真3).それぞれ波状を呈したり皺をつくっていたりしますが,基本は並行しています.私たちはこの帯のでき方は,水に飽和されていず,多様なブロックが全体としてはまじりあうことなく流れ下る岩屑なだれの特質を表していると考えました.通常の岩屑なだれは,堆積場に多数の流れ山を残します.流れ山は普通は同一の,あるいは複数のブロックで構成されています.そういう流れが,ものすごい勢いで尾根に乗り上げ、溶岩台地上に残されたのですから,流れ山になってもおかしくない個々のブロックが流れによって引き伸ばされて帯状になったのだと.
写真4
崖に張り付いた第2波の堆積物(撮影は遠藤)
第1波の後すぐに第2波が来ましたが,第1波によって削られた斜面から大量の地下水が噴出して,流れの性質はその水を大量に含んだものになりました.しかし水によって飽和されることはなく,谷の斜面に張り付いて残るほどの粘着性を持っていました(写真4).さらに時間をおいて発生した第3波は大量の水で飽和された,大きな岩塊を含まない方規模な泥流状のものでした.この第2波は伝上川の谷の中を流れ下り濁川に合流しました.したがって溶岩台地の上は第1波の堆積物が薄く引き伸ばされて堆積した後,後続流に覆われることはなかったのです.
写真5
雪面の堆積域に流れ山状に突き出た岩屑なだれ堆積物のブロック(撮影は遠藤)
実は,この崩壊で発生した流動体をめぐって議論がありました.濁川やさらに下流の王滝 川の谷底には第1波の堆積物を第2波の堆積物が覆ってたまっていました.これを見た研究者は斜面からの大量の地下水全体としてはの流出を考えて,水で飽和された岩屑流であると考えました.写真5は柳瀬というあたりです,第2波、第3波の堆積物が表面に露出していますが,ところどころに第1波の堆積物が顔を出しています(赤色部;写真5).褐色でややごつごつしている部分は第2波です.
写真6
堆積域の下流側は第2波と第3波が主.柳ヶ瀬付近.平滑な第3波上を歩く(撮影は町田光雄)
第3波は水で飽和されていたため、表面が滑らかになっており、私たちはその上を歩いています(写真6).しかし、第3波は川沿いに限られ、途中から発しているのでごく小規模なものと思われます.
私たちは、山体崩壊から出発した流動体は、基本は水に飽和されず,ブロック構造を残した岩屑なだれ堆積物と考えました.溶岩台地上のシマシマ模様の堆積物はその最初の顔つきを反映したものと考えました.
以上の様に見てくると,溶岩台地上の第1波の堆積物は、岩屑なだれ堆積物の初元的な特徴を見る上で貴重なもので,その内部構造が反映されたものであることが良く分かると思います.そのような流れがどのように下流に向けて変化していったのか,その流動を引き起こしたものは何なのか,などの議論のうえで大事な観察結果の一つであると考えています.
(遠藤,隅田)
引用文献
Endo,K., Sumita,M., Machida,M., and Furuichi,M.(1989):The 1984 Collapse and Debris Avalanche Deposits of Ontake Volcano, Central Japan. IAVCEI Proceedings in Volcanology 1, J.H.Latter(Ed.), Volcanic Hazards, 210-229.
10月3日は,1983年10月3日三宅島噴火が起こった日です.
三宅島は2000年にも噴火し,長期にわたる火山ガスの放出が続いて,島民の帰島までに長い期間を余儀なくされた噴火として,皆さんの記憶に残っていると思いますが,その17年前にあった噴火です.
この噴火は10月3日午後3時25分頃に二男山付近で始まり,割れ目火口がみるみるのびて,南南西に向かった割れ目火口は16時40分ごろには島の南端に近い新澪池に達し,さらに海岸付近にタフリングを形成しました.噴火は10月4日の0時45分頃終了しました(実質約9時間)。
私たちはこの噴火の調査を1週間後から開始しました.その経緯と調査結果の概要は,以下の「三宅島噴火を調査して」(日本大学文理学部学窓,1984)をご覧ください.図や写真もあります.
☆ギャラリーの見方☆
・写真中央の三角をクリック
→スライドショー(自動再生)開始
・写真中央の縦線2本をクリック
→スライドショー(自動再生)停止
・写真右の三角をクリック
→次の写真へ
・写真左の三角をクリック
→前の写真へ
・写真上の交差した矢印をクリック
→画面いっぱいに拡大
戻るときは右上のバツをクリック
・写真下のサムネイル画像をクリック
→その写真へ
また日本火山学会はこの噴火の特集号を出版しています【三宅島の噴火―1983年-.火山29巻特集号,352pp.】.
この特集号には私たちも,「1983年三宅島噴火の火山灰層位学的研究」(遠藤・宮地・千葉・隅田・坂爪,p.184-207)を執筆しました.
この噴火で特にユニークなことは,タフリングが形成されたことです.タフリング全体は3日後に台風のため侵食されてしまいましたが,その断面がきれいに残りました.このタフリングの堆積物については,隅田まり「1983年三宅島噴火で生じたリング状砕屑丘」(火山,30(1)11-32,1985)が刊行されていますので,ご覧ください.
(注)この段階では新澪池周辺の火口には、北から,A,B,C,Dの名称を用いたが、上記特集号では、統一名称に沿って、AはPに、BはQに、CはRに、DはSに改めている。
三宅島は歴史時代に合計15回の噴火をしたと考えられていますが,この特集号の宮崎務さんの論文を参考にすると,
1085年噴火--69年--1154年噴火--315年--1469年噴火--66年--1535年噴火--60年--1595年噴火--48年--1643年噴火--69年--1712年噴火--51年--1763年噴火--48年--1811年噴火--24年--1835年噴火--39年--1874年噴火--66年--1940年噴火--22年--1962年噴火--21年--1983年噴火--17年--2000年噴火--?
最近の4回の噴火の間隔は約20年です.2000年からとすると次の噴火が起こってもおかしくないということになりますが,2000年噴火はそれ以前の噴火とは噴火の様式が異なり,噴火の仕組みそのものが異なる可能性があるので,単純ではありません。
次回は噴火について詳しく解説いたします.
6年前の2014年御嶽火山噴火はまだ記憶に新しいところです。この噴火は山頂付近の火口から発生した水蒸気爆発で,大量の噴石・火山灰を噴出し,小規模な火砕流も伴っていました.山頂一帯で登山していた多数の登山者が噴石等に襲われ、死者58名、行方不明者5名という、火山災害では極めて悲惨な災害となりました。この噴火を機に、予測しにくい水蒸気噴火に対して多くの議論が巻き起こりました。
以下の報告書には突発的な噴火に備えるシェルターの設置が急務であることとともに、噴火の翌年に実施された火山噴火予知連絡会御嶽山総合観測班地質チームによる大変貴重な調査結果が含まれていますので、是非ご覧いただきたいと思います。
活火山における退避壕等の充実に向けた手引き〈 参考資料 〉 平成27年12月 内閣府
1984年9月14日には長野県西部地震が発生し,後に御嶽崩れとよばれた山体崩壊が発生しました.地震のマグニチュード6.8で,震源は御嶽山の約10㎞南東で,まさに直下型地震が御嶽山を襲ったわけです.
この地震によって御嶽山やその周囲には多数の斜面崩壊が起こりました.中でも御嶽山の南側の尾根の一つがほとんど丸々崩壊しました(写真).この卵型の崩壊地形は450mⅹ1300m,崩壊土量は3400万m3 と見積もられています.
崩壊した尾根をつくっていた溶岩や火山灰・土壌の大小のブロックが大量に流下し、伝上川を下り,濁川に合流し,さらに王滝川に下って2㎞程流下し、王滝川の狭窄部で止まりました.崩壊源からの流下距離は約13㎞,停止位置との高度差は1600mでした.濁川温泉の宿は深く埋まり、犠牲者が出ました.
ここで大事な情報は,地震の発生時刻は午前8時48.9分,下流で作業していた森林作業員が8時49分に雷鳴のような大きな音を聞いていることで,崩壊の発生はほぼ地震発生と同時と見られることです.さらに,流下距離10㎞付近で,上記の流れが8時56分に通過したと目撃されているので,7分で10㎞を通過したことになり,その流下速度は時速70~90㎞となります.
このような高速な流れは,岩屑なだれとよばれます.私たちはその堆積物を調査して、第1波、第2波、第3波に分けました.第1波は最初に到達したもので,溶岩ブロックや火山灰・土壌のブロックがそのまま堆積した岩屑なだれ堆積物の特徴をもったもの,第2波はブロックはほとんど水でばらばらになったマトリックスを形成しているが表面はやや凹凸を示すもの、第3波は水で飽和されて表面が滑らかな平面になっているもので,下からこの順番になっていました.
私たちは,崩壊源から出発した岩屑なだれが,谷の斜面などの表層物質や植生を削り取って取り込みながら高速で流下し,継続流は湧き出す大量の水を取り込み,岩屑流に姿を変えながら流下していったと考え,総堆積量は3400万m3から増量して、5400万m3となったと考えました.こうした流下後にわかる流下時の様子は続報で見て頂きたいと思います.
以上は,下記の論文から紹介しました.
K.Endo, M.Sumita, M.Machida & M.Furuichi (1989) The 1984 Collapse and debris avalanche deposits of Ontake Volcano, Central Japan. Volcanic Hazards(J.H.Latter ed.), 210-228. IAVCEI Proceedings In Volcanology 1.
2018年(平成30年)9月6日,午前3時7分,北海道胆振地方東部でマグニチュード6.7,最大震度7(厚真町)の地震が発生しました.震源の深さは37㎞でした.
厚真町で土砂崩れ(吉野地区)が発生し多数の死者が出たほか,厚真町や苫小牧市の埋立地はじめ広い範囲で液状化現象が生じました(札幌市清田区含む).埋立地には苫東火力発電所があり,機械の損傷のため電力供給がストップ,水力発電や風力発電も止まって,北海道全域で停電(295万戸)となりました.ブラックアウトという言葉が私たちの記憶に刻み込まれました.人的被害としては,死者41名、負傷者681名でした.
被害状況については内閣府(防災情報のページ>災害情報)から
ブラックアウトについては経済産業省 資源エネルギー庁(スペシャルコンテンツ)から
「日本初の“ブラックアウト”、その時一体何が起きたのか 」https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/blackout.html
などがあります.
この地震による被害状況(陶野郁雄氏による)
2020.8.17追記 北海道南西沖地震 中村裕昭
7月12日は北海道南西沖地震があった日です.この地震による大津波は奥尻島に大きな被害をもたらすなど,大変注目された地震でした.
この地震は、1993年7月12日午後10時17分に奥尻島の北西沖で発生(図1),震源の深さ34㎞、マグニチュード7.8で,奥尻島をはじめ対岸の渡島半島西岸に,津波被害と地盤の液状化現象を引き起こしました.津波は奥尻島の西岸で最高31.7mまで遡上しました.奥尻島の対岸の渡島半島西岸を含めて地震・津波による大きな被害が生じました.
奥尻町と共同通信社から津波到達前後の写真を提供していただきました。
青苗地区は津波によってほぼすべての建物等が一掃され,かつ火災の発生が加わりました.この津波到達直後の様子を示す斜め写真(写真1-1)と、地震以前の写真(写真1-2)と比較することによって,そのすさまじい津波の実態を推しはかることができます.
図1には震源の位置と共に,液状化現象が震源から250㎞の範囲で認められたことが示されています(陶野,1998).
日本中に大きな衝撃を与え,我々の記憶にも鮮明に焼き付けられた地震でしたが,地震発生から約3年後に,奥尻町役場から『北海道南西沖地震 奥尻町記録書』(奥尻町,255頁,1996年,写真1−3)が発行されました.多くのカラー写真や資料,住民の証言等によってによって災害の実態や復興の過程がよくわかる,大変優れた,かつ、非常に貴重な記録です.
この津波到達直後の様子を示す斜め写真1−1はこの本に掲載されています.
津波に関してはその後多くの機関が調査を実施しました.私たちも瀬棚のやや南,太櫓(フトロ)川河口部の砂丘上を津波堆積物が覆っているのを認めました(日本の沖積層,p.333-339).
私たちはまた,液状化現象について渡島半島西岸において、特に後志(シリベシ)利別川に沿って詳しい調査を行いました.
後志利別川河口から約3km上流の真栄橋の上流側左岸の堤外地では噴砂が多数列をなしていたため,6か所(A~F)のトレンチ調査を行い噴砂の地下での様子を明らかにしました(図4).
地表から約2~3m掘削したトレンチの壁面には大小様々な多数の砂脈が確認され,充填物の下部に、下位の砂礫層から礫混じり砂~礫が砂脈中を立ち上がる様子が確認されました.
トレンチ壁面に認められる砂脈には,液状化しなかった砂層を貫くもの,地表まで達しないもの,砂脈になりきらず砂漣状の模様になるものが見受けられました(石綿ほか,1998).
液状化は,地下水で砂などの粒子の隙間が満たされている場合に発生するため,貫かれた砂層は液状化発生当時に地下水面より上位にあったといえます.
(本図中心よりやや右の噴砂列においてトレンチ調査を行いました.詳細位置を図右上に示します.)
私たちは図2の今金町豊田の豊田橋付近の河川敷においても液状化のトレンチ調査を行いました。
ここで特に注目されたのは,最新の旧河道堆積物である砂礫層が液状化を起こし,砂脈内を礫が立ち上がっているのが確認されたことです(写真2;遠藤ほか,1998;中村ほか,1998;遠藤,2017).
奥尻町(1996)北海道南西沖地震 奥尻町記録書.北海道奥尻町役場,255pp.
遠藤邦彦(2017)日本の沖積層 改訂版: ─未来と過去を結ぶ最新の地層─.冨山房インターナショナル,475p.
陶野郁雄(1998)液状化による砂層の堆積構造の変化が強度特性に及ぼす影響に関する基礎研究.平成7年〜平成9年度科学研究費補助金 (基礎研究 (A)(1) 研究成果報告書,110p.
陶野郁雄(1998)1993年北海道南西沖地震の概要と液状化災害.上記報告書,5-10.
鈴木正章(1998)後志利別川流域低地の沖積層.上記報告書,11-17.
石綿しげ子・遠藤邦彦・陶野郁雄(1998)垂直断面から見た液状化砂脈の堆積構造(真栄橋).上記報告書,18-29.
遠藤邦彦・陶野郁雄・高宮浩一・橘川貴史・小森次郎・鈴木正章(1998)液状化による砂礫層の堆積構造の変化-1993年北海道南西沖地震で発生した砂脈・液状化層における礫の再配列を中心に-.上記報告書,30-45.
中村裕昭・似内 徹・平野圭一・稲葉宏幸・稲葉由紀子・福原 誠・北田貴光(1998)液状化砂脈内の物理特性と力学特性.上記報告書,53-60.
(2020.8.17) 1993.7.12の北海道南西沖地震について中村裕昭会員よりコメントが寄せられました.これに合わせて,トレンチ発掘調査の写真を幾つか追加しました.
中村裕昭
この地震は私にとっても特に印象に残っている被害地震の一つです。奥尻島にも入り,追加された写真1-1の惨状を目の当たりに見てきました。写真1-1の説明文にある津波火災の脅威を私は初めて知らされました。
またこの地震の印象の2番目はやはり写真2で紹介いただいた砂礫層の液状化のトレンチ調査です。記事に書いていただいているように砂脈内を礫が立ち上がっている様子を確認しましたが,それは砂脈の下半部で砂脈の上半部には礫が見られず,液状化層から地表に噴出する過程で砂脈内で粒子が見事に淘汰されているのが非常に印象的でした。即ち液状化層は砂礫層であったが,地表の噴砂は細砂から中砂であったということが強烈な印象として残りました。
引用文献
中村裕昭・似内 徹・平野圭一・稲葉宏幸・稲葉由紀子・福原 誠・北田貴光(1998)液状化砂脈内の物理特性と力学特性.平成7年〜平成9年度科学研究費補助金 (基礎研究 (A)(1) 研究成果報告書「液状化による砂層の堆積構造の変化が強度特性に及ぼす影響に関する基礎研究」,53-60.
☆ギャラリーの見方☆
・写真中央の三角をクリック
→スライドショー(自動再生)開始
・写真中央の縦線2本をクリック
→スライドショー(自動再生)停止
・写真右の三角をクリック
→次の写真へ
・写真左の三角をクリック
→前の写真へ
・写真上の交差した矢印をクリック
→画面いっぱいに拡大
戻るときは右上のバツをクリック
・写真下のサムネイル画像をクリック
→その写真へ
7月5日は2017年九州北部豪雨があった日です.
この日,九州北部の福岡県朝倉市,久留米市,佐賀県鳥栖市,大分県日田市にまたがる一帯に,積乱雲が次々に発生する線状降水帯が停滞し,朝倉市では1時間降水量169㎜,9時間降水量778㎜を記録しました.このような豪雨が上記地域の北側の山地に一気にもたらされ,筑後川の支川を流下し,支川に沿う地域及び本川沿いに大きな被害をもたらしました.2014年8月の広島豪雨,2015年10月に鬼怒川等を襲った関東・東北豪雨に続く豪雨災害で,特にその記録的な豪雨とその発生メカニズム、および伴われた災害は注目されました.同時に長く記憶にとどめるべきものとなりました.
この災害の特徴や今後に学ぶべきことについて,当時現地で調査にあたられた現在関西大学の黒木貴一さんにご寄稿をお願いしました.以下にご紹介いたしますので,詳細をご覧ください.快くご寄稿下さった黒木さんには心から御礼を申し上げます.
[追記]
この記事を掲載する準備をしていた7月4日には,九州の熊本県,鹿児島県を中心に記録的な豪雨が発生し,大きな被害が出ています.特に人吉盆地から八代市で八代海にそそぐ球磨川に沿って各所で氾濫が起きています.磯会員からは,球磨川は人吉盆地より下流は狭い峡谷部を延々と流れるため,人吉盆地から下流の狭窄部に入るところで球磨川の水位は上昇しやすく,峡谷部では危険個所が多いとの情報が寄せられています.関連情報が入りましたら「防災・環境>2020年7月3日からの豪雨」に掲載していきます.
九州北部豪雨は2017年7月5日に発生し福岡県朝倉市を中心に多くの被害が出ました。この時の死者は福岡県と大分県で40名でした。山地では多数の斜面崩壊と土石流,平野では土石流や氾濫による大きな被害となりました(黒木ほか,2018;日本応用地質学会,2018)。
山地では片岩に起因する崩壊や地すべり(写真1)が,平野では微地形による氾濫被害の差(写真2)が目立ちました。またこの平野での土砂堆積の広がりは,黒木ほか(2018)で国土地理院の写真解析から示され(図1)ています。図1では北東にある山地から谷を通じて平野に排出された氾濫水が,古い筑後川の流路を西に辿りながら合流点の所で現在の筑後川に達する姿が大変鮮明になっています。
この豪雨時に,まず注目されたのは線状でかなり狭い範囲で,長時間継続した強い降雨で,その強い強度の場所を赤く示す気象庁の示すレーダー画像は印象的でした。この降雨は,豪雨を降らせる積乱雲が連続して発生し線状に並ぶという「線状降水帯」の発生と関連付けられてテレビ等報道では説明されました。ちなみに,その中にあった朝倉市では7月5日だけで約520mm,隣接の東峰村では非公式ながら約760mmを観測しています。
公的機関による初動調査に目を引くものがありました。国土地理院は,空中写真撮影と崩壊や氾濫の判読,UAVによる被災地の近接撮影も行い,その成果を数日中に地理院地図に掲載しました。その地理情報は,その後の詳細調査の方向性を決定づけることになりましたが,特に上空から俯瞰する画像に,マッチ棒のような,樹皮が失われた多数の流木(写真3)が至る所に止まる姿に注目が集まりました。
この流木による被害拡大も話題になりました。停止した流木が障害となり上流の水位上昇,流木の建物等への直接被害,流木の耕地に侵入による復旧障害などです。戦後の造林政策で生まれた杉檜の人工林がその起源ですが,安価な外材の輸入もあり適齢の樹木が伐木されず,伐木後の植樹機会も乏しく,樹木は成長する一方だったことも流木被害を目立たせたと考えられます。
また公的機関では国土交通省九州地方整備局が発災前2017年1月と発災後9月に取得した1mグリッドDEMを災害調査に提供されたことも素晴らしいことでした。災害前後の標高変化を詳細かつ高精度に図化できており,研究や復旧活動に活用できる何ものにも代えがたい情報になっています。
この提供窓口は九州大学平成29年7月九州北部豪雨災害調査・復旧・復興支援団でしたが,それ以外にも,この災害に対し土木学会,地盤工学会,砂防学会,日本応用地質学会など多数の学協会が調査組織を立ち上げ,多くの視点でこの災害の真相に迫っています。しかも日本学術会議公開シンポジウムを通じて各情報共有も図られ,また調査組織は被災地に対するアウトリーチの調査報告会も開催しました。
この災害調査の結果,防災・減災への課題も見えてきました。第一に,浸水被害は平野の微地形で説明できる一方で,山地内の谷底平野の被災有無が何の地形条件に由来するか判然とせず,治水地形分類図やハザードマップが災害実態を十分に示せていない現状が見えました。逆にこれほどの被災の中でも安全だった土地条件の謎も残っています。加えて交通遮断,情報断絶,責任者不在の中で対応を迫られた生徒児童の緊急避難,サバイバル,下校,心理ケアなどの学校防災にも関心が高まりました。
一つの災害を対象に,これほど新しい見方や対応が様々に出た機会は,他に余り思い当たらず初めてだったのではないでしょうか。つまり九州北部豪雨での災害調査では,それ以前に比べ別次元にあった災害認識,調査・還元手法がそろって適用されて,その時点から自然災害調査が新時代型に移行したように見えてます。それが2017年7月5日でした。
参考文献
黒木貴一・磯望・後藤健介(2018):2017年九州北部豪雨による北野平野の土砂堆積と地形.第9回土砂災害に関するシンポジウム論文集,73-78.
日本応用地質学会(2018):2017年九州北部豪雨災害調査団報告書.190p.
2020.7.5更新
2017年7月5日九州北部豪雨に関する解析結果が山川修治さんから届いていますので、ここに掲載します。
今年も7月4日以来、熊本県、鹿児島県、長崎県・福岡県と場所を移しながら記録的な大雨が発生しているところです。くれぐれも安全第一にお過ごしください。
☆ギャラリーの見方☆
・写真中央の三角をクリック
→スライドショー(自動再生)開始
・写真中央の縦線2本をクリック
→スライドショー(自動再生)停止
・写真右の三角をクリック
→次の写真へ
・写真左の三角をクリック
→前の写真へ
・写真上の交差した矢印をクリック
→画面いっぱいに拡大
戻るときは右上のバツをクリック
・写真下のサムネイル画像をクリック
→その写真へ