今日は何があった日?

*今日は何があった日(11/15-21)* 1986(昭和61)年11月15-21日伊豆大島噴火

2020.11.18 日付を訂正しました.

 11月15日は,1986年伊豆大島噴火が始まった日です.

 この噴火は,始めは三原山山頂火口(A火口)からの比較的穏やかなストロンボリ式の噴火でしたが,11月21日に突然始まった山腹割れ目噴火は非常に爆発的で,南東から北西に並んだ多数の火口(B,C割れ目火口)から,大量のマグマが噴出しました.こうした経緯から約1万人の住民の全島避難に至りました.

1986年11月17日噴火遠望写真
写真1 1986年11月17日噴火遠望(撮影:遠藤邦彦)

 私たち日大調査班は16日にこの噴火の調査に向かう準備をし,17日から現地で調査を開始しました.現地では東大調査団と合流して、合同調査団として,調査の許可を得て,噴火の経緯や噴出物の特性などの調査にあたりました.

 

写真1 噴火遠望(撮影:遠藤邦彦)

山頂噴火による火山灰の分布図
図1 山頂噴火による火山灰の分布(11月15日~17日)単位:g/m2 (遠藤ほか,1987)

 噴火の始まりは11月15日17時25分(気象庁発表)で,三原山山頂火口の南端のA火口から溶岩噴泉を噴き上げました.周囲には“ペレーの毛”と呼ばれる髪の毛のように細長く伸びた火山灰が降りました.

A火口からの噴火 11月15日〜20日

 

 17日,18日には山頂部から溶岩噴泉の状況と火山灰の降り方を観察・調査しました.溶岩噴泉は写真のように,20分おき位に間欠的に繰り返しました.時計を見ながらそろそろ来るぞとカメラを構えて,逃さないように撮影しました.調査時間中に発生した溶岩噴泉のほとんどを撮影しています.時間と共に溶岩噴泉の形態も変化し,バブルのような形態も出始めました.

 

写真集 ストロンボリ式噴火(撮影:印牧もとこ)

噴泉が15〜20分間隔で絶え間なく吹き上げている。

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粘性の高いアア熔岩
写真2 18日に流れ出た粘性の高いアア熔岩(撮影:印牧もとこ)

 

 噴火前に約200mの深さがあった火口は溶岩湖となって,みるみるマグマで満たされていき,18日にはついに溶岩湖から溢れ出して溶岩流が出始め,アア溶岩としてゆっくり前進していました(写真).19日には溶岩流は三原山の斜面を流下し,カルデラ床に達しました.

 

写真2 粘性の高いアア熔岩(撮影:印牧もとこ)

山頂噴火による熔岩流の流下過程の図
図2 山頂噴火による熔岩流の流下過程(遠藤ほか,1987)

図2 山頂噴火による熔岩流の流下過程(遠藤ほか,1987)

ヘアークラックの写真
写真3 前日迄の山頂からの噴火で降下した火山灰(主に”ペレーの毛”)を切るヘアークラック(撮影:千葉達朗,1986年11月21日15時ごろ)

 11月21日,私たちは主にカルデラ床での火山灰の積もり方を調査していました.

 15時過ぎに,遊歩道近くのカルデラ床にヘアークラックを発見しました(写真3).写真の上方、中央右に玄武岩溶岩を切る細い割れ目がありますが,その延長が“ペレーの毛”で覆われた地面を切っていました.降ったばかりの“ペレーの毛”がこのクラックを挟んで分かれています.この細いクラックを千葉達朗さんが追跡し,どうやら餅が膨らむときにできる展張性のクラックであり,すなわち我々は膨らみつつある土地に立っていると考えられました.そこで、予定していた(結果的に割れ目火口が生じた)方向に行くことをやめ,関係機関への通報を検討し始めました.丁度その時に割れ目大噴火は始まってしまいました.

 

写真3 前日迄の山頂からの噴火で降下した火山灰(主に”ペレーの毛”)を切るヘアークラック(撮影:千葉達朗,1986年11月21日15時ごろ)

21日に起こった山腹割れ目噴火の写真
写真4 21日に起こった山腹割れ目噴火 (撮影:稲葉宏幸)

 11月21日の割れ目噴火は、16時15分に突然始まりました.はじまりは後に大割れ目火口に発達する2つの地点から上がった白い小さな噴煙です.続いて黒い噴煙が上がりました.これは反対側から見ると赤色だったようです.見る見るこれらの噴煙は成長していくので、我々は急いで撤退することにしました.

 

 御神火茶屋から元町港へ急いでいましたが,途中道路の落差10㎝程の開口性亀裂を横切りました(16時35分頃).元町港に着くころ,すでに暗くなり.大規模割れ目噴火は最盛期となっていました(17時ごろ写真4).

 

写真4 21日に起こった山腹割れ目噴火(撮影:稲葉宏幸)

1986年伊豆大島噴火による噴出物と火口群の図
図3 1986年伊豆大島噴火による噴出物と火口群(遠藤ほか,1987)

 さらに、17時45分ごろにはカルデラの外の斜面にC火口群が生じ,最終的に11個の火口が形成されました.これらを連ねる割れ目火口群はC火口群ということになります. 御神火茶屋からの帰途に横切った亀裂の延長にあたります.C5火口から流下した溶岩流は元町に向かう谷を勢いよく下ったことも,全島避難の理由の一つになりました.

 

1986年伊豆大島噴火による噴出物と火口群 単位:mm

<火口>

A 山頂火口(三原山)

B 火口群  B1~B8

C 火口群  C1~C11

 

 以上のように、1986年噴火は、A火口からの比較的穏やかなストロンボリ式噴火を6日間ほど続けた後,突然21日午後にB,C割れ目火口群からの激しい噴火に代わりました(fire curtainの形成)。この両者のマグマの性質は若干異なるので,カルデラ床の下に比較的古いマグマ(SiO2 54-%)があって、そこに新しいマグマ(SiO2 52%)が上がってきてこれを貫いてA火口から先に噴火し、52%のマグマに影響を受けた54-%のマグマがやや時間をおいて21日に割れ目火口から一気に大量に噴出したのだろうと考えられます。この間に、カルデラ床でのヘアークラックが、54-%マグマが地面を膨らませ、出始めようとしていた瞬間を示していたというのは、非常に意味深いことだと思います。

 

<参考文献>

遠藤邦彦・千葉達朗・宮地直道(1987)1986年伊豆大島噴火をめぐって.採集と飼育,49(8),337-343.

 

※この噴火については多数の研究報告が以下の特集号にまとめられていますのでご覧ください。

 火山第 2 集第 33 巻特集号『伊豆大島 1986 年噴火』,火山学会. 

 

※そこには以下の2篇が含まれています。

遠藤邦彦・千葉達朗・谷口英嗣・隅田まり・太刀川茂樹・宮原智哉・宇野リベカ・宮地直道(1988)テフロクロノロジーの手法に基づく 1986~ 1987 年伊豆大島噴火の経緯と噴出物の特徴.火山 第2集,33(SPCL),S32-S51.

千葉達朗・遠藤邦彦・太刀川茂樹・谷口英嗣(1988)伊豆大島 1986 年噴火の溶岩流.火山 第2集,33(SPCL),S52-S63.

火山弾の写真
写真5 火山弾(撮影:遠藤邦彦,1986年11月18日)

写真5 火山弾(撮影:遠藤邦彦)

 

スコリア
写真6 スコリア(撮影:印牧もとこ,1986年11月17日)

写真6 スコリア(撮影:印牧もとこ)

*今日は何があった日(9/14)* 1984(昭和59)年9月14日御嶽崩れ(長野県西部地震)続

前の記事:1984(昭和59)年9月14日御嶽崩れ(長野県西部地震)

中央台地に乗り上げたシマシマ模様の正体は?

写真1 崩壊源(撮影:町田光雄)
写真1 崩壊源(撮影:町田光雄)

崩壊源(写真1)から直接下る谷は伝上川で,上述の第1波(岩屑なだれ)は伝上川を約2㎞下り西側から下ってくる濁沢(合流後濁川となる)の谷と合流します(図1).

図1

(Endo et al., 1989に基づく)

図2 中央台地に残された第1波のシマシマ模様―現地調査と空中写真判読から作成した町田光雄の原図に基づく  緑は植生が残っていた範囲,茶色の打点部は第2波
図2 中央台地に残された第1波のシマシマ模様―現地調査と空中写真判読から作成した町田光雄の原図に基づく  緑は植生が残っていた範囲,茶色の打点部は第2波

 この時、伝上川と濁川の間にあった平坦な尾根(溶岩台地:中央台地と仮称)の上を第1波が乗り上げてシマシマ模様を残し,乗り上げなかった本体はそのまま伝上川を下って、濁川の谷に入りました.その結果、溶岩台地(中央台地や左岸台地)の上には第1波の堆積物が残されました(写真2,3,図2).この堆積物は赤褐色や灰色,暗褐色、黒色など多様な色合いを示す縞々を呈していました.私たちは卒論生の町田君や古市君らと共に現地調査を行い,空中写真も参考にして溶岩台地上に残されたシマシマの堆積物や濁川、王滝川の谷を埋める堆積物(山体崩壊に発する岩屑なだれ堆積物)の特徴を記載しました.

写真2

中央台地南部の第1波 (撮影は町田光雄)

写真3

第1波のシマシマ、境界は直線的で混じりあうことがない(撮影は町田光雄)

 

 その結果の一つが町田君が描いた図2です.細長い個々の帯は,色合いを異にする溶岩塊でできていたり,黒色土壌であったり,褐色ロームであったり,帯と帯の間はまじりあうことなくシャープに分かれています(写真3).それぞれ波状を呈したり皺をつくっていたりしますが,基本は並行しています.私たちはこの帯のでき方は,水に飽和されていず,多様なブロックが全体としてはまじりあうことなく流れ下る岩屑なだれの特質を表していると考えました.通常の岩屑なだれは,堆積場に多数の流れ山を残します.流れ山は普通は同一の,あるいは複数のブロックで構成されています.そういう流れが,ものすごい勢いで尾根に乗り上げ、溶岩台地上に残されたのですから,流れ山になってもおかしくない個々のブロックが流れによって引き伸ばされて帯状になったのだと.

 

写真4

崖に張り付いた第2波の堆積物(撮影は遠藤)

 

 第1波の後すぐに第2波が来ましたが,第1波によって削られた斜面から大量の地下水が噴出して,流れの性質はその水を大量に含んだものになりました.しかし水によって飽和されることはなく,谷の斜面に張り付いて残るほどの粘着性を持っていました(写真4).さらに時間をおいて発生した第3波は大量の水で飽和された,大きな岩塊を含まない方規模な泥流状のものでした.この第2波は伝上川の谷の中を流れ下り濁川に合流しました.したがって溶岩台地の上は第1波の堆積物が薄く引き伸ばされて堆積した後,後続流に覆われることはなかったのです.

 

写真5

雪面の堆積域に流れ山状に突き出た岩屑なだれ堆積物のブロック(撮影は遠藤)

 

 実は,この崩壊で発生した流動体をめぐって議論がありました.濁川やさらに下流の王滝 川の谷底には第1波の堆積物を第2波の堆積物が覆ってたまっていました.これを見た研究者は斜面からの大量の地下水全体としてはの流出を考えて,水で飽和された岩屑流であると考えました.写真5は柳瀬というあたりです,第2波、第3波の堆積物が表面に露出していますが,ところどころに第1波の堆積物が顔を出しています(赤色部;写真5).褐色でややごつごつしている部分は第2波です.

 

写真6

堆積域の下流側は第2波と第3波が主.柳ヶ瀬付近.平滑な第3波上を歩く(撮影は町田光雄)

 

 第3波は水で飽和されていたため、表面が滑らかになっており、私たちはその上を歩いています(写真6).しかし、第3波は川沿いに限られ、途中から発しているのでごく小規模なものと思われます.

 私たちは、山体崩壊から出発した流動体は、基本は水に飽和されず,ブロック構造を残した岩屑なだれ堆積物と考えました.溶岩台地上のシマシマ模様の堆積物はその最初の顔つきを反映したものと考えました.

 以上の様に見てくると,溶岩台地上の第1波の堆積物は、岩屑なだれ堆積物の初元的な特徴を見る上で貴重なもので,その内部構造が反映されたものであることが良く分かると思います.そのような流れがどのように下流に向けて変化していったのか,その流動を引き起こしたものは何なのか,などの議論のうえで大事な観察結果の一つであると考えています.

 

(遠藤,隅田)

 

引用文献

Endo,K., Sumita,M., Machida,M., and Furuichi,M.(1989):The 1984 Collapse and Debris Avalanche Deposits of Ontake Volcano, Central Japan. IAVCEI Proceedings in Volcanology 1, J.H.Latter(Ed.), Volcanic Hazards, 210-229.

 


*今日は何があった日(10/3)* 1983(昭和58)年10月3日三宅島噴火

 10月3日は,1983年10月3日三宅島噴火が起こった日です.

 

噴火後の新澪池付近(赤外カラー、アジア航測㈱撮影・提供)
噴火後の新澪池付近(赤外カラー、アジア航測㈱撮影・提供)

 三宅島は2000年にも噴火し,長期にわたる火山ガスの放出が続いて,島民の帰島までに長い期間を余儀なくされた噴火として,皆さんの記憶に残っていると思いますが,その17年前にあった噴火です.

三宅島地図
三宅島地図

 この噴火は10月3日午後3時25分頃に二男山付近で始まり,割れ目火口がみるみるのびて,南南西に向かった割れ目火口は16時40分ごろには島の南端に近い新澪池に達し,さらに海岸付近にタフリングを形成しました.噴火は10月4日の0時45分頃終了しました(実質約9時間)。

 私たちはこの噴火の調査を1週間後から開始しました.その経緯と調査結果の概要は,以下の「三宅島噴火を調査して」(日本大学文理学部学窓,1984)をご覧ください.図や写真もあります.

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 また日本火山学会はこの噴火の特集号を出版しています【三宅島の噴火―1983年-.火山29巻特集号,352pp.】.

この特集号には私たちも,「1983年三宅島噴火の火山灰層位学的研究」(遠藤・宮地・千葉・隅田・坂爪,p.184-207)を執筆しました.

新澪池付近およびその北部に生じた火口、火砕丘と溶岩の分布
新澪池付近およびその北部に生じた火口、火砕丘と溶岩の分布

 この噴火で特にユニークなことは,タフリングが形成されたことです.タフリング全体は3日後に台風のため侵食されてしまいましたが,その断面がきれいに残りました.このタフリングの堆積物については,隅田まり「1983年三宅島噴火で生じたリング状砕屑丘」(火山,30(1)11-32,1985)が刊行されていますので,ご覧ください.

 

(注)この段階では新澪池周辺の火口には、北から,A,B,C,Dの名称を用いたが、上記特集号では、統一名称に沿って、AはPに、BはQに、CはRに、DはSに改めている。

 三宅島は歴史時代に合計15回の噴火をしたと考えられていますが,この特集号の宮崎務さんの論文を参考にすると,

 

1085年噴火--69年--1154年噴火--315年--1469年噴火--66年--1535年噴火--60年--1595年噴火--48年--1643年噴火--69年--1712年噴火--51年--1763年噴火--48年--1811年噴火--24年--1835年噴火--39年--1874年噴火--66年--1940年噴火--22年--1962年噴火--21年--1983年噴火--17年--2000年噴火--?

 

 最近の4回の噴火の間隔は約20年です.2000年からとすると次の噴火が起こってもおかしくないということになりますが,2000年噴火はそれ以前の噴火とは噴火の様式が異なり,噴火の仕組みそのものが異なる可能性があるので,単純ではありません。

 

 次回は噴火について詳しく解説いたします.


*今日は何があった日(9/27)* 2014(平成26)年9月27日11時53分御嶽火山噴火

 6年前の2014年御嶽火山噴火はまだ記憶に新しいところです。この噴火は山頂付近の火口から発生した水蒸気爆発で,大量の噴石・火山灰を噴出し,小規模な火砕流も伴っていました.山頂一帯で登山していた多数の登山者が噴石等に襲われ、死者58名、行方不明者5名という、火山災害では極めて悲惨な災害となりました。この噴火を機に、予測しにくい水蒸気噴火に対して多くの議論が巻き起こりました。

 以下の報告書には突発的な噴火に備えるシェルターの設置が急務であることとともに、噴火の翌年に実施された火山噴火予知連絡会御嶽山総合観測班地質チームによる大変貴重な調査結果が含まれていますので、是非ご覧いただきたいと思います。

 

活火山における退避壕等の充実に向けた手引き〈 参考資料 〉 平成27年12月  内閣府


*今日は何があった日(9/14)* 1984(昭和59)年9月14日御嶽崩れ(長野県西部地震)

 

 1984年9月14日には長野県西部地震が発生し,後に御嶽崩れとよばれた山体崩壊が発生しました.地震のマグニチュード6.8で,震源は御嶽山の約10㎞南東で,まさに直下型地震が御嶽山を襲ったわけです.

 

写真1 御嶽崩れ空中写真(Endo et al.,1989)( 撮影:朝日航洋)
写真1 御嶽崩れ空中写真(Endo et al.,1989)( 撮影:朝日航洋)

 この地震によって御嶽山やその周囲には多数の斜面崩壊が起こりました.中でも御嶽山の南側の尾根の一つがほとんど丸々崩壊しました(写真).この卵型の崩壊地形は450mⅹ1300m,崩壊土量は3400万m3 と見積もられています.

図1 長野県西部地震によって引き起こされた岩屑なだれ、岩屑流発生地点の位置図 (Endo et al.,1989)
図1 長野県西部地震によって引き起こされた岩屑なだれ、岩屑流発生地点の位置図 (Endo et al.,1989)

 

 崩壊した尾根をつくっていた溶岩や火山灰・土壌の大小のブロックが大量に流下し、伝上川を下り,濁川に合流し,さらに王滝川に下って2㎞程流下し、王滝川の狭窄部で止まりました.崩壊源からの流下距離は約13㎞,停止位置との高度差は1600mでした.濁川温泉の宿は深く埋まり、犠牲者が出ました.

 

 ここで大事な情報は,地震の発生時刻は午前8時48.9分,下流で作業していた森林作業員が8時49分に雷鳴のような大きな音を聞いていることで,崩壊の発生はほぼ地震発生と同時と見られることです.さらに,流下距離10㎞付近で,上記の流れが8時56分に通過したと目撃されているので,7分で10㎞を通過したことになり,その流下速度は時速70~90㎞となります.

 

 このような高速な流れは,岩屑なだれとよばれます.私たちはその堆積物を調査して、第1波、第2波、第3波に分けました.第1波は最初に到達したもので,溶岩ブロックや火山灰・土壌のブロックがそのまま堆積した岩屑なだれ堆積物の特徴をもったもの,第2波はブロックはほとんど水でばらばらになったマトリックスを形成しているが表面はやや凹凸を示すもの、第3波は水で飽和されて表面が滑らかな平面になっているもので,下からこの順番になっていました.

 

 私たちは,崩壊源から出発した岩屑なだれが,谷の斜面などの表層物質や植生を削り取って取り込みながら高速で流下し,継続流は湧き出す大量の水を取り込み,岩屑流に姿を変えながら流下していったと考え,総堆積量は3400万m3から増量して、5400万m3となったと考えました.こうした流下後にわかる流下時の様子は続報で見て頂きたいと思います.

 

 以上は,下記の論文から紹介しました.

K.Endo, M.Sumita, M.Machida & M.Furuichi (1989) The 1984 Collapse and debris avalanche deposits of Ontake Volcano, Central Japan. Volcanic Hazards(J.H.Latter ed.), 210-228. IAVCEI Proceedings In Volcanology 1.


*今日は何があった日(9/6)* 2018(平成30)年9月6日北海道胆振東部地震

 2018年(平成30年)9月6日,午前3時7分,北海道胆振地方東部でマグニチュード6.7,最大震度7(厚真町)の地震が発生しました.震源の深さは37㎞でした.

 厚真町で土砂崩れ(吉野地区)が発生し多数の死者が出たほか,厚真町や苫小牧市の埋立地はじめ広い範囲で液状化現象が生じました(札幌市清田区含む).埋立地には苫東火力発電所があり,機械の損傷のため電力供給がストップ,水力発電や風力発電も止まって,北海道全域で停電(295万戸)となりました.ブラックアウトという言葉が私たちの記憶に刻み込まれました.人的被害としては,死者41名、負傷者681名でした.

 

 被害状況については内閣府(防災情報のページ>災害情報)から

 「平成30年北海道胆振東部地震に係る被害状況等について」http://www.bousai.go.jp/updates/h30jishin_hokkaido/pdf/310128_jishin_hokkaido.pdf

 

 ブラックアウトについては経済産業省 資源エネルギー庁(スペシャルコンテンツ)から

「日本初の“ブラックアウト”、その時一体何が起きたのか 」https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/blackout.html

 

などがあります.

 

この地震による被害状況(陶野郁雄氏による)

吉野地区の斜面崩壊(撮影:陶野郁雄)
写真1 吉野地区の斜面崩壊(撮影:陶野郁雄)
写真2 むかわ町市街地の被害状況(撮影:陶野郁雄)
写真2 むかわ町市街地の被害状況(撮影:陶野郁雄)
写真3 苫東厚真火力発電所のある埋立地の液状化現象(撮影:陶野郁雄)
写真3 苫東厚真火力発電所のある埋立地の液状化現象(撮影:陶野郁雄)

*今日は何があった日(7/12)* 1993(平成5)年7月12日北海道南西沖地震

 7月12日は北海道南西沖地震があった日です.この地震による大津波は奥尻島に大きな被害をもたらすなど,大変注目された地震でした.

 

 この地震は、1993年7月12日午後10時17分に奥尻島の北西沖で発生(図1),震源の深さ34㎞、マグニチュード7.8で,奥尻島をはじめ対岸の渡島半島西岸に,津波被害と地盤の液状化現象を引き起こしました.津波は奥尻島の西岸で最高31.7mまで遡上しました.奥尻島の対岸の渡島半島西岸を含めて地震・津波による大きな被害が生じました.

 

 奥尻町と共同通信社から津波到達前後の写真を提供していただきました。

 青苗地区は津波によってほぼすべての建物等が一掃され,かつ火災の発生が加わりました.この津波到達直後の様子を示す斜め写真(写真1-1)と、地震以前の写真(写真1-2)と比較することによって,そのすさまじい津波の実態を推しはかることができます.

写真1-1 北海道南西沖地震で発生した津波と火災で壊滅的被害を受けた奥尻島青苗地区=1993(平成5)年7月13日午前、共同通信社ヘリから(写真提供:共同通信社)*奥尻町記録書から転載
写真1-1 北海道南西沖地震で発生した津波と火災で壊滅的被害を受けた奥尻島青苗地区=1993(平成5)年7月13日午前、共同通信社ヘリから(写真提供:共同通信社)*奥尻町記録書から転載
写真1-2 地震以前の青苗地区(提供:奥尻町)
写真1-2 地震以前の青苗地区(提供:奥尻町)
図1 北海道南西沖地震の震源の位置と液状化発生地点(陶野,1998)
図1 北海道南西沖地震の震源の位置と液状化発生地点(陶野,1998)

 図1には震源の位置と共に,液状化現象が震源から250㎞の範囲で認められたことが示されています(陶野,1998)

写真1-3 北海道南西沖地震 奥尻町記録書の表紙
写真1-3 北海道南西沖地震 奥尻町記録書の表紙

 日本中に大きな衝撃を与え,我々の記憶にも鮮明に焼き付けられた地震でしたが,地震発生から約3年後に,奥尻町役場から『北海道南西沖地震 奥尻町記録書』(奥尻町,255頁,1996年,写真1−3)が発行されました.多くのカラー写真や資料,住民の証言等によってによって災害の実態や復興の過程がよくわかる,大変優れた,かつ、非常に貴重な記録です.

 この津波到達直後の様子を示す斜め写真1−1はこの本に掲載されています.

 

 津波に関してはその後多くの機関が調査を実施しました.私たちも瀬棚のやや南,太櫓(フトロ)川河口部の砂丘上を津波堆積物が覆っているのを認めました(日本の沖積層,p.333-339).

 

図2 檜山地域の液状化分布図(陶野、1998)
図2 檜山地域の液状化分布図(陶野、1998)

 私たちはまた,液状化現象について渡島半島西岸において、特に後志(シリベシ)利別川に沿って詳しい調査を行いました.

  後志利別川河口から約3km上流の真栄橋の上流側左岸の堤外地では噴砂が多数列をなしていたため,6か所(A~F)のトレンチ調査を行い噴砂の地下での様子を明らかにしました(図4).

 地表から約2~3m掘削したトレンチの壁面には大小様々な多数の砂脈が確認され,充填物の下部に、下位の砂礫層から礫混じり砂~礫が砂脈中を立ち上がる様子が確認されました.

 トレンチ壁面に認められる砂脈には,液状化しなかった砂層を貫くもの,地表まで達しないもの,砂脈になりきらず砂漣状の模様になるものが見受けられました(石綿ほか,1998)

 液状化は,地下水で砂などの粒子の隙間が満たされている場合に発生するため,貫かれた砂層は液状化発生当時に地下水面より上位にあったといえます.

 

図3 北檜山町新栄橋左岸の堤外地で発生した地盤被害状況(石綿ほか,1998)
図3 北檜山町新栄橋左岸の堤外地で発生した地盤被害状況(石綿ほか,1998)

(本図中心よりやや右の噴砂列においてトレンチ調査を行いました.詳細位置を図右上に示します.)

図4 トレンチ壁面の断面スケッチ(石綿ほか,1998)
図4 トレンチ壁面の断面スケッチ(石綿ほか,1998)

 

 私たちは図2の今金町豊田の豊田橋付近の河川敷においても液状化のトレンチ調査を行いました。

 ここで特に注目されたのは,最新の旧河道堆積物である砂礫層が液状化を起こし,砂脈内を礫が立ち上がっているのが確認されたことです(写真2;遠藤ほか,1998中村ほか,1998;遠藤,2017).

 

写真2 今金町豊田橋付近のトレンチ断面に現れた礫を含む砂脈(遠藤,2017)
写真2 今金町豊田橋付近のトレンチ断面に現れた礫を含む砂脈(遠藤,2017)

 

奥尻町(1996)北海道南西沖地震 奥尻町記録書.北海道奥尻町役場,255pp.

遠藤邦彦(2017)日本の沖積層 改訂版: ─未来と過去を結ぶ最新の地層─.冨山房インターナショナル,475p.

陶野郁雄(1998)液状化による砂層の堆積構造の変化が強度特性に及ぼす影響に関する基礎研究.平成7年〜平成9年度科学研究費補助金 (基礎研究 (A)(1) 研究成果報告書,110p.

 陶野郁雄(1998)1993年北海道南西沖地震の概要と液状化災害.上記報告書,5-10.

 鈴木正章(1998)後志利別川流域低地の沖積層.上記報告書,11-17.

 石綿しげ子・遠藤邦彦・陶野郁雄(1998)垂直断面から見た液状化砂脈の堆積構造(真栄橋).上記報告書,18-29.

 遠藤邦彦・陶野郁雄・高宮浩一・橘川貴史・小森次郎・鈴木正章(1998)液状化による砂礫層の堆積構造の変化-1993年北海道南西沖地震で発生した砂脈・液状化層における礫の再配列を中心に-.上記報告書,30-45.

 中村裕昭・似内 徹・平野圭一・稲葉宏幸・稲葉由紀子・福原 誠・北田貴光(1998)液状化砂脈内の物理特性と力学特性.上記報告書,53-60.

 


 

(2020.8.17) 1993.7.12の北海道南西沖地震について中村裕昭会員よりコメントが寄せられました.これに合わせて,トレンチ発掘調査の写真を幾つか追加しました.

 

北海道南西沖地震

中村裕昭

 

 この地震は私にとっても特に印象に残っている被害地震の一つです。奥尻島にも入り,追加された写真1-1の惨状を目の当たりに見てきました。写真1-1の説明文にある津波火災の脅威を私は初めて知らされました。

 またこの地震の印象の2番目はやはり写真2で紹介いただいた砂礫層の液状化のトレンチ調査です。記事に書いていただいているように砂脈内を礫が立ち上がっている様子を確認しましたが,それは砂脈の下半部で砂脈の上半部には礫が見られず,液状化層から地表に噴出する過程で砂脈内で粒子が見事に淘汰されているのが非常に印象的でした。即ち液状化層は砂礫層であったが,地表の噴砂は細砂から中砂であったということが強烈な印象として残りました。

 

図5 調査位置図(中村ほか,1998)
図5 調査位置図(中村ほか,1998)
図6 砂脈内でのサンプルの位置(中村ほか,1998)
図6 砂脈内でのサンプルの位置(中村ほか,1998)
図7 砂脈内での粒度組成の垂直的変化(中村ほか,1998)
図7 砂脈内での粒度組成の垂直的変化(中村ほか,1998)

引用文献

中村裕昭・似内 徹・平野圭一・稲葉宏幸・稲葉由紀子・福原 誠・北田貴光(1998)液状化砂脈内の物理特性と力学特性.平成7年〜平成9年度科学研究費補助金 (基礎研究 (A)(1) 研究成果報告書「液状化による砂層の堆積構造の変化が強度特性に及ぼす影響に関する基礎研究」,53-60.


 

 この機会に,上記トレンチ調査の、遠藤会員、陶野会員が写した写真を幾つか追加します.

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*今日は何があった日(7/5)* 2017(平成29)年7月5日九州北部豪雨

 7月5日は2017年九州北部豪雨があった日です.

 

 この日,九州北部の福岡県朝倉市,久留米市,佐賀県鳥栖市,大分県日田市にまたがる一帯に,積乱雲が次々に発生する線状降水帯が停滞し,朝倉市では1時間降水量169㎜,9時間降水量778㎜を記録しました.このような豪雨が上記地域の北側の山地に一気にもたらされ,筑後川の支川を流下し,支川に沿う地域及び本川沿いに大きな被害をもたらしました.2014年8月の広島豪雨,2015年10月に鬼怒川等を襲った関東・東北豪雨に続く豪雨災害で,特にその記録的な豪雨とその発生メカニズム、および伴われた災害は注目されました.同時に長く記憶にとどめるべきものとなりました.

 

 この災害の特徴や今後に学ぶべきことについて,当時現地で調査にあたられた現在関西大学の黒木貴一さんにご寄稿をお願いしました.以下にご紹介いたしますので,詳細をご覧ください.快くご寄稿下さった黒木さんには心から御礼を申し上げます.

 

 

[追記]

 この記事を掲載する準備をしていた7月4日には,九州の熊本県,鹿児島県を中心に記録的な豪雨が発生し,大きな被害が出ています.特に人吉盆地から八代市で八代海にそそぐ球磨川に沿って各所で氾濫が起きています.磯会員からは,球磨川は人吉盆地より下流は狭い峡谷部を延々と流れるため,人吉盆地から下流の狭窄部に入るところで球磨川の水位は上昇しやすく,峡谷部では危険個所が多いとの情報が寄せられています.関連情報が入りましたら「防災・環境2020年7月3日からの豪雨」に掲載していきます.


九州北部豪雨

黒木貴一(関西大学)

 

 

 

写真1 大規模な斜面崩壊の例
写真1 大規模な斜面崩壊の例

 九州北部豪雨は2017年7月5日に発生し福岡県朝倉市を中心に多くの被害が出ました。この時の死者は福岡県と大分県で40名でした。山地では多数の斜面崩壊と土石流,平野では土石流や氾濫による大きな被害となりました(黒木ほか,2018;日本応用地質学会,2018)。

写真2 微地形と氾濫被害の差
写真2 微地形と氾濫被害の差

 山地では片岩に起因する崩壊や地すべり(写真1)が,平野では微地形による氾濫被害の差(写真2)が目立ちました。またこの平野での土砂堆積の広がりは,黒木ほか(2018)で国土地理院の写真解析から示され(図1)ています。図1では北東にある山地から谷を通じて平野に排出された氾濫水が,古い筑後川の流路を西に辿りながら合流点の所で現在の筑後川に達する姿が大変鮮明になっています。

図1 空中写真でみた土砂の分布
図1 空中写真でみた土砂の分布

 

 この豪雨時に,まず注目されたのは線状でかなり狭い範囲で,長時間継続した強い降雨で,その強い強度の場所を赤く示す気象庁の示すレーダー画像は印象的でした。この降雨は,豪雨を降らせる積乱雲が連続して発生し線状に並ぶという「線状降水帯」の発生と関連付けられてテレビ等報道では説明されました。ちなみに,その中にあった朝倉市では7月5日だけで約520mm,隣接の東峰村では非公式ながら約760mmを観測しています。

 

写真3 橋桁に残された流木
写真3 橋桁に残された流木

 公的機関による初動調査に目を引くものがありました。国土地理院は,空中写真撮影と崩壊や氾濫の判読,UAVによる被災地の近接撮影も行い,その成果を数日中に地理院地図に掲載しました。その地理情報は,その後の詳細調査の方向性を決定づけることになりましたが,特に上空から俯瞰する画像に,マッチ棒のような,樹皮が失われた多数の流木(写真3)が至る所に止まる姿に注目が集まりました。

 

 この流木による被害拡大も話題になりました。停止した流木が障害となり上流の水位上昇,流木の建物等への直接被害,流木の耕地に侵入による復旧障害などです。戦後の造林政策で生まれた杉檜の人工林がその起源ですが,安価な外材の輸入もあり適齢の樹木が伐木されず,伐木後の植樹機会も乏しく,樹木は成長する一方だったことも流木被害を目立たせたと考えられます。

 

 また公的機関では国土交通省九州地方整備局が発災前2017年1月と発災後9月に取得した1mグリッドDEMを災害調査に提供されたことも素晴らしいことでした。災害前後の標高変化を詳細かつ高精度に図化できており,研究や復旧活動に活用できる何ものにも代えがたい情報になっています。

 

 この提供窓口は九州大学平成29年7月九州北部豪雨災害調査・復旧・復興支援団でしたが,それ以外にも,この災害に対し土木学会,地盤工学会,砂防学会,日本応用地質学会など多数の学協会が調査組織を立ち上げ,多くの視点でこの災害の真相に迫っています。しかも日本学術会議公開シンポジウムを通じて各情報共有も図られ,また調査組織は被災地に対するアウトリーチの調査報告会も開催しました。

 

 この災害調査の結果,防災・減災への課題も見えてきました。第一に,浸水被害は平野の微地形で説明できる一方で,山地内の谷底平野の被災有無が何の地形条件に由来するか判然とせず,治水地形分類図やハザードマップが災害実態を十分に示せていない現状が見えました。逆にこれほどの被災の中でも安全だった土地条件の謎も残っています。加えて交通遮断,情報断絶,責任者不在の中で対応を迫られた生徒児童の緊急避難,サバイバル,下校,心理ケアなどの学校防災にも関心が高まりました。

 

 一つの災害を対象に,これほど新しい見方や対応が様々に出た機会は,他に余り思い当たらず初めてだったのではないでしょうか。つまり九州北部豪雨での災害調査では,それ以前に比べ別次元にあった災害認識,調査・還元手法がそろって適用されて,その時点から自然災害調査が新時代型に移行したように見えてます。それが2017年7月5日でした。

 

 

参考文献

黒木貴一・磯望・後藤健介(2018):2017年九州北部豪雨による北野平野の土砂堆積と地形.第9回土砂災害に関するシンポジウム論文集,73-78.

日本応用地質学会(2018):2017年九州北部豪雨災害調査団報告書.190p.



2020.7.5更新

2017年7月5日九州北部豪雨に関する解析結果が山川修治さんから届いていますので、ここに掲載します。

今年も7月4日以来、熊本県、鹿児島県、長崎県・福岡県と場所を移しながら記録的な大雨が発生しているところです。くれぐれも安全第一にお過ごしください。

20170705九州北部豪雨の総観気象場からの再検討

山川修治(日本大学)

 

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*今日は何があった日(6/15)* 1991(平成3)年6月15日ピナツボ火山の噴火

 フィリピンのピナツボ火山は1991年6月15日に噴火のクライマックスを迎え,10㎞3ものマグマが一挙に放出されるという,20世紀後半における最大の噴火を発生させた.20世紀最大の噴火はアラスカのKatmai火山の1912年噴火で,そのマグマ噴出量は13㎞3とされるからほぼ匹敵する規模であった.

 

 このような規模の大噴火にも拘らず,クライマックス噴火の3日前には6万人もの人々が避難しており,被害を最小限にとどめた大噴火として取り上げられることが多い.

 

 この噴火によって厚く堆積した火砕流堆積物が長期にわたって高温状態を保ったことで二次的な水蒸気爆発が噴火後数年にわたって繰り返されたことも報告されている.

 

 また,この噴火の噴煙柱は成層圏に注入され,火山灰・エアロゾルは地球を何度も周回しながら南北の高緯度地域へと拡散した.その結果生じた地球の気候変動に対する影響という側面でも注目される噴火である.

 

図1 ひまわりの衛星画像に基づくピナツボ火山1991年噴火時の噴煙拡大の推移

Newhall & Punongbayan(1996)を参考に簡略化

 このピナツボ火山の位置は,フィリピンの首都,マニラの北95㎞に位置している.東京で言えばおよそ箱根火山や富士火山と同じ距離にある.北に目をやれば浅間火山,榛名火山,赤城火山ほか多くの火山が類似の距離にある.箱根火山等も過去にはピナツボ噴火と同タイプ,同規模の大噴火を起こしており,首都圏に住む我々には是非とも参考にしなければならない事例である.

 

 この噴火ついてはNewhall & Punongbayan(1996)の1126頁にのぼる大著が刊行されたほか,アメリカ地質調査所(USGS)の報告書によってよくまとめられている(下記リンク参照).さらには,H-U シュミンケ著「火山学」にも詳細に紹介されているので,この本の和訳本に基づいて,以下に概要を述べておきたい.

 

 ・Newhall,CH & Punongbayan,RS (1996) Fire and mud:eruptions and lahars of Mount Pinatubo,Philippines.PHILVOCS and Univ Washinton Press, Seattle, 1-1126.

 ・USGSピナツボ火山噴火報告書のリンク先 ⇒ https://pubs.usgs.gov/pinatubo/

 ・H-U シュミンケ (2010) 火山学 (隅田まり・西村裕一訳),354pp, 古今書院 ⇒ http://www.kokon.co.jp/book/b238192.html

噴火の概要,観測と対応の経緯

 

・1990年7月16日 M7.8の地震がピナツボ火山北西100kmの地点で発生.この地震がピナツボ火山のマグマ溜まりに影響を及ぼしたかもしれない。

・1991年3月中旬 地震活動が始まる.

・4月2日 水蒸気噴火が発生.

・4月後半~6月始めにかけて,アメリカ地質調査所から研究者が派遣され,調査・観測にあたる.

・5月28日 SO2の放出量が5000t/日以上に増加.

・6月1日 地震の震源は山頂付近の浅所に集中.

・6月3日 小規模な火山灰噴火が発生.

・6月5日 「火砕流を伴う大規模な噴火が2週間以内に起きる可能性がある(警報レベル3)」と発表.

・6月7日 噴煙(水蒸気雲)が上空8㎞まで上昇,「大噴火が24時間以内に起きる(警報レベル4)」と発表され,多くの住民が避難.

・6月10日 米軍クラーク空軍基地から14500人が避難.

・6月12日 最初の爆発的噴火,避難指示範囲は火口から半径30㎞に拡大され,避難者総数は6万人に達した.

・6月15日 20世紀後半では最大規模となる噴火が発生.

 

 この噴火で生じた噴煙柱は人工衛星の観測データによると,広がった部分の直径は400km,高度は成層圏に達しており,中心部では35km,縁辺部では25kmにまで達して,降下テフラ(軽石・火山灰)の総噴出量は3.4~4.4km3に及んだ.火山灰は偏東風によって西方に運搬された.

 

 火砕流は火口から周囲に広く広がり,放射状の谷を埋め,厚いところでは厚さ200mにも及んだ.火砕流の噴出量は5~6㎞3と見積もられた.

 

 不運にも噴火発生の6月15日,ルソン島には台風が達しており,水分を含んだ火山灰の重みで多くの家屋が崩壊.さらに火砕流堆積物は未固結なため7月から始まったモンスーンの雨によりラハールを発生し,広大な農地が埋め尽くされた.ラハールによる被害は2005年ごろまで続くものと予想され,信じられないほどの経済的・社会的打撃を与えた.

 

 この過程で,アメリカの地質調査所とフィリピン火山観測所の協力により,近代的で詳細な観測がなされ,行政も一体となって,避難の周知にあたった.

 

〔以上はH-U シュミンケ著:火山学(隅田まり・西村裕一訳)を参考に遠藤邦彦・隅田まり・杉中佑輔がまとめた〕

 

1991年ピナツボ火山噴火の2年後に日本列島を襲った大冷害

 

 1991年ピナツボ火山の噴火に由来する火山灰やエアロゾルは,地球の広い範囲を覆うようになり,南極の日本の基地の雪からも火山灰が発見された.当時には既に地球温暖化問題(気候変動問題)は国際的に大きな課題になっており,火山灰やエアロゾルの大気圏への注入の効果がどうなるのか大いに注目された.

 

 以下に山川修治日本大学教授によりまとめられたものを紹介する. 

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*今日は何があった日(6/3)* 1991(平成3)年6月3日雲仙普賢岳火砕流

長井大輔氏(雲仙岳災害記念館)からの寄稿に,遠藤が加筆したものを掲載します.

 

図1 雲仙岳周辺の地図
図1 雲仙岳周辺の地図

 1990年11月17日に始まった雲仙普賢岳噴火は,1991年5月20日に溶岩ドームが初めて確認され,以後激しい噴火に移行しました.

 

 同24日には初めての火砕流が起きていました.

 

 当時,島原市北上木場町にはたくさんのマスコミ関係者が噴火の状況を撮影に来ていました.

 

 その中でも火砕流が正面に見られる位置は,カメラを構えたマスコミでいっぱいになっており,この位置は通称“定点”と呼ばれていました.

 

 その下流に農業研修所があり,地元の消防団が詰所として滞在,地域の監視にあたっていました(図1,2).

図2 雲仙岳のRCMap   10m毎に色が遷移し,100mで一巡するよう繰り返し配色。凡例左上の沈砂池の黄色が標高150~160mを示す。(作成:杉中佑輔)
図2 雲仙岳のRCMap   10m毎に色が遷移し,100mで一巡するよう繰り返し配色。凡例左上の沈砂池の黄色が標高150~160mを示す。(作成:杉中佑輔)
写真1 現在の雲仙普賢岳  溶岩ドーム(平成新山)と水無川を正面に見る(撮影:長井大輔)。 農業研修所跡には慰霊施設がつくられています(黒い入り口はシェルター)。
写真1 現在の雲仙普賢岳  溶岩ドーム(平成新山)と水無川を正面に見る(撮影:長井大輔)。 農業研修所跡には慰霊施設がつくられています(黒い入り口はシェルター)。

 同年6月3日16時ごろ,溶岩ドームの崩壊が生じてそれまでで最大級の火砕流が発生し,水無川の谷を流下しました.

 

 火砕流本体は水無川に沿って(写真の左手に)流れ下りましたが,本体の上部は火砕サージとなって北上小場の定点一帯を襲いました(写真の撮影地点の方向).

 

 このため43名の死者・行方不明者が出てしまいました.この中にはアメリカとフランスの火山学者 計3名が含まれています.

 

 写真の農業研修所跡は,火砕流・火砕サージによって焼失し,現在土台のみ残して保存されています(写真1,2).

写真2 写真1と同じアングルから撮った10年前(2010年10月)の雲仙普賢岳の溶岩ドームと火砕流の主な流下コースの水無川の谷(中央)(撮影:遠藤邦彦)
写真2 写真1と同じアングルから撮った10年前(2010年10月)の雲仙普賢岳の溶岩ドームと火砕流の主な流下コースの水無川の谷(中央)(撮影:遠藤邦彦)
写真3 1992年9月25日の火砕流発生による火山灰の降下(撮影:陶野郁雄)
写真3 1992年9月25日の火砕流発生による火山灰の降下(撮影:陶野郁雄)

 この雲仙普賢岳の火砕流は,溶岩ドーム崩壊型と呼ばれるタイプですが,火砕流の発生が目の前で頻発したもので,繰り返された溶岩ドームの成長と崩壊の過程が九州大学火山観測所を中心に詳細に記録され,また多くの機関・研究者により噴火の推移や特徴が研究されました.

 

 さらに,6月3日火砕流のように火砕サージが同時に発生し,多くの人命が失われましたが,その現場からギリギリのタイミングで生還された人々の証言に基づき,火砕サージの実態が詳細に研究されています(荒牧・谷口,1997など).

 

 火砕流が発生すると,写真3のように火砕流から上空に舞い上がった火山灰が降ってきて写真のように真っ暗になります(1992年9月25日の例).

 

図3 降下火山灰層厚分布図(磯ほか,1996)
図3 降下火山灰層厚分布図(磯ほか,1996)

 また5年近くの長期にわたり様々な被害がもたらされました.

 

 この噴火による降灰は島原市内などの街中では直ぐに水道水を掛けて流されましたが,郊外や市街地周辺の林地や寺社境内の一部にはそのまま降り積もりました(図3).

 

 島原市街地は 眉山 マユヤマ の陰になるため,火山灰の厚さは薄くなっています.市街でも車で走行中にフロントガラスに火山灰がベタッと付着して前方が見えなくなったり,坂道ではスリップしやすくなったりしました(写真4,5).

 

 いずれも火山灰に大気中の水分が多量に含まれていたためです.

写真4 1991年9月16日島原市街地の降灰状況(撮影:陶野郁雄)
写真4 1991年9月16日島原市街地の降灰状況(撮影:陶野郁雄)
写真5 1991年9月16日島原栄町の降灰(撮影:陶野郁雄)
写真5 1991年9月16日島原栄町の降灰(撮影:陶野郁雄)

 

 雲仙普賢岳の噴火災害で得られた研究成果や災害を後世に伝えるため,土石流の被害の中心であった安中地区に雲仙岳災害記念館がつくられました.

 同館は2018年に展示リニューアルしており,4K映像で見られる「平成大噴火シアター」やドローン映像で上空からの平成新山などを観察できる「雲仙岳スカイウオーク」,ジオラマの上を立体的に火砕流が流れる「平成噴火ジオラママッピング」など新しい展示が充実しています.

 

 詳しくは,雲仙岳災害記念館のHP(https://www.udmh.or.jp/)を参照ください.

 

 また,雲仙岳を中心とした島原半島は,日本では最初にユネスコ世界ジオパークに認定(島原半島世界ジオパーク:http://www.unzen-geopark.jp)されており,周辺のジオサイトなども充実しており,見所の多い地域ですので皆さんぜひお訪ねください.

 

引用文献

荒牧重雄・谷口宏充(1997)1991年6月3日雲仙普賢岳の火砕流による災害;火砕流の破壊力-雲仙普賢岳の例(平成7-8年度科学研究費補助金研究成果報告書:研究代表者 荒牧重雄),1-41.

磯 望・陶野郁雄・遠藤邦彦(1996)雲仙普賢岳噴火に伴う降下火山灰層.西南学院大学児童教育学論集,22巻,2号,p.75-90.

 

【長井大輔・遠藤邦彦】

*今日は何があった日(5/26)* 1983.5.26日本海中部地震

日本海中部地震の震央と液状化範囲(Tohno & Shamoto, 1985より改変)
日本海中部地震の震央と液状化範囲(Tohno & Shamoto, 1985より改変)

 1983年5月26日の12時0分に、後に昭和58年日本海中部地震と命名されたマグニチュード7.7の地震が発生し、東北地方北西部に大きな被害をもたらしました。

 

 震央は秋田県能代沖で、津波を伴っていました。日本における液状化現象の調査・研究を長らくリードしてこられた陶野郁雄理事から思い出の記が寄せられていますので、是非お読みください。

 

 大地震の際に生じる砂地盤の流動化現象については古くから知られていましたが、この現象は1964年に発生した新潟地震およびアラスカ地震によって国際的に広く認知され、詳細な研究が進められた結果、 砂地盤の液状化現象として確立されたものです。

 

 陶野郁雄さんは、新潟地震後、1978年宮城県沖地震による液状化現象を調査され(文献1)、1983年日本海中部地震では地震直後に現地に赴かれ、極めて詳細な現地調査を実施し、さらに液状化現象の大規模なトレンチ発掘を初めて実行されるなど(文献2-12)、その後も含めて日本の液状化現象の研究の推進役となってこられました。同氏を中心に進められてきた業績は多数に及びますが、その主なものは以下の通りです。

(K.E.) 

 

陶野郁雄氏の主な関連研究業績  

1. 陶野郁雄・安田進(1978)宮城県沖地震による液状化現象.基礎工,6,No.11,113-120.

2. 陶野郁雄・安田進・社本康広(1983)日本海中部地震による液状化災害.基礎工,11,125-131.

3. 陶野郁雄・安田進・社本康広(1983)日本海中部地震による液状化現象とその被害状況.土と基礎,31,13-20.

4. 陶野郁雄・社本康広(1984)地盤特性と液状化現象-日本海中部地震の場合ー.地盤震動シンポジウム,日本建築学会,12,57-66.

5. 陶野郁雄・社本康広(1985)日本海中部地震による液状化災害.液状化層の堆積構造に基づく液状化震度の推定に関する研究(昭和61年度文部省科学研究費補助金(自然災害特別研究(1))研究成果報告書,8-48.

6. Tohno, I. and Shamoto, Y. (1985) Liquefaction Damage to the Ground during the 1983 Nihonkai-Chubu(Japan Sea) Earthquake in Akita Prefecture, Tohoku, Japan. Natural Disaster Science, 7, 67-93.

7. Tohno, I. and Shamoto, Y. (1986) Liquefaction Damage to the Ground during the 1983 Nihonkai-Chubu(Japan Sea) Earthquake in Aomori Prefecture, Tohoku, Japan. Natural Disaster Science, 8, 85-116.

8. 陶野郁雄(1986)液状化現象から見た砂質堆積物の物理的・堆積学的特徴.地質学論集27号[都市地盤の形成史と地層の液状化],15-42.

9. 陶野郁雄・社本康広(1986)地形・地質分類に基づく液状化危険度の予測.日本地震工学シンポジウム論文集,7,103-108.

10. 陶野郁雄(1987)液状化層の堆積構造に基づく液状化深度の推定に関する研究.昭和61年度文部省科学研究費補助金(自然災害特別研究)研究成果報告書,179pp(+資料編51pp).

11. Yasuda, S. and Tohno, I. (1988) Sites of reliquefaction caused by the 1983 Nihonkai-chubu earthquake. Soils and foundations, 28, No.2, 61-72.

12. 陶野郁雄(2013)液状化現象.デジタルブック最新第四紀学(DVD版),日本第四紀学会


日本海中部地震液状化調査の思い出

陶野 郁雄

 1983年5月26日正午に東北地方北西部で大変強い地震が発生した。その時私は国立公害研究所の研究室で揺れを感じた。すぐに食堂にあるテレビに向かい秋田において災害が発生したことを知った。

 

 当時基礎地盤コンサルタンツにおられた安田 進さんから研究室に電話がかかってきた。東大の石原研而先生も調査に出かけるそうなので、東工大として一緒に調査に行かないかとの誘いを受けた。そこで、清水建設技術研究所の社本康弘君に電話し、少し前まで勤めていた東工大建築の学生2名を連れて参加することにした。

 

 翌朝1番の飛行機で石原先生などと共に秋田空港に向かった。基礎地盤の方々も加わり秋田空港ではかなりの人数となっていた。石原先生に言われて空港において予め用意されていた地図の前で30分位青森と秋田のどの辺で液状化が生じている可能性が高いかを話した。

 

 その後、石原先生と安田さんのグループ、そのほかの東大グループ、東工大グループの3グループに分けて調査を行い、連絡先は基礎地盤の秋田支店長とした。東大の2グループは秋田市内と八郎潟に向かった。一方、私たちは津軽平野に向かった。国道などは通行止めで青森に行けないことを知り、角館から田沢湖西側の山道を抜け青森に向かった。林道まで頭に入っていたので崩れて通れないところを避けながら青森に向かった。

 

 殆ど飲まず食わずの状態で弘前に着いたのは既に午後2時を回っていた。

 弘前で昼食を取った後、岩木川に沿って北上すると少しずつ液状化の痕跡が見られるようになって来ました。最初に大規模な液状化現象が見られたのが、 下車力 シタシャリキ でした。

 その後、 富萢 トミヤチ に行きました。

 

 そこで手分けをして調査していたら、学生が村の人を連れてきて、方言で何を言っているのか分からないので、聞いてほしいと言ってきました。

 

 村人は山の上地区で地震によって大きな穴ができているといって案内をしてくれました。

 

 それが、直径7mもある大噴砂孔でした。

 学生たちは東工大建築学科の腕章とヘルメットをしていたことから、周りの調査を社本君たちに任せ、山の上地区の家1軒1軒案内していただき、家の方から被害状況を聞き、調べ、そして応急処置のアドバイスをしてまわりました。

 

 中には極めて危険な家屋もあり、今晩比較的安全な近くの家に泊まってほしいと言うこともありました。

 

 調査は既に真っ暗となった午後8時過ぎまで行いました。

 弘前に戻ったのは、午後9時半を回っていました。そこで、開いている店を探し、夕食を取りました。弘前に泊まろうと連絡したところ、東大グループが大館に泊まっているのでそこに行ってほしいと言われました。

 

 そこで、ホテルに連絡したところ何時になっても構わないから是非来てほしいと言われ、大館に向かうことにしました。ホテルに着いたのは午前1時近くでした。私が案内されたのは最上階の特別室でした。別室がいくつもあり、午前1時半頃から打ち合わせを行うところと飲むところを用意できました。これが、調査初日です。

 

 それから津軽には1987年まで都合100日以上調査に訪れることになりました。

(続く)


*今日は何があった日(4/14)* 2016.4.14,16熊本地震

 

 2016年に熊本地震が起こっています.2度も震度7の地震が起こり驚かされたあの熊本地震です.最初の地震は4月14日21時26分に発生しました.熊本県益城町で震度7を観測(マグニチュード(Mj)6.5,震源の深さは11㎞).2度目の地震は4月16日午前1時25分に発生しました.これは当初14日の本震の余震と考えられましたが,後に震度7(マグニチュード(Mj)7.3,震源の深さ12㎞)と訂正され,14日の方が前震,16日の方が本震とされています.2つの地震の震源は約4㎞離れているだけでした.

熊本地震断層位置図(RCMap)
熊本地震断層位置図(RCMap)

 

 極めて多数の大きな地震が熊本県から大分県にかけて発生し,広域に被害が生じました.以前から調査されていた活断層,益城町付近で交差する布田川断層帯,日奈久断層帯に関係した活動と考えられています.

 この地震については,地震活動と活断層帯との関係,災害の状況,被害と地盤の関係,復旧・復興,避難生活等々多くの調査・研究・報道が行われました.その中から地震直後の調査例を紹介します.

 


*今日は何があった日(3/31)*2000.3.31有珠山2000年噴火

 

 有珠山2000年噴火は3月31日に発生し,以後長く継続した.

 

 3月31日の数日前の3月28日から火山性地震が多発し,30日には2400回余に達した.

 

 この間に住民に避難勧告や避難指示が出され,16000人近くが避難した.日本の火山噴火では「噴火予知の成功例」とされる.

 

 その背景には火山観測研究者(北大)と地元自治体との長年にわたる連携の実績があった.

 

 写真の噴煙は後にマグマ水蒸気噴火とされ,噴煙の基部から火砕サージが写真の左手に小規模に広がるのを見ることができる.

 

 この後の噴火は水蒸気性の噴火となった.

有珠山2000年噴火によるテフラの分布図(火山灰は札幌の北まで達した)


 

左は全体,右は火口周辺のアップ 


単位は1平方mあたりの降下重量g

噴火初期には大量の噴石が西方に噴出した.

 

国道を覆う一面の噴石

下方は泥流で覆われ隠れる

噴石は国道の先にあった洞爺湖幼稚園を襲った.

多数の穴は噴石による.

洞爺湖幼稚園の噴石

噴火による火山灰の堆積と,その後の地殻変動によってかつての国道は見る影もなくなった.

有名な土産物であったお菓子の工場は押しつぶされた.


*今日は何があった日(3/11)* 2011.3.11東日本大震災発生から9年

 

 それは言うまでもなく、2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)に発する極めて大規模な津波です。その被害の甚大さと広がりから東日本大震災とよばれました。まだまだ復興も半ばという所が少なくありません。私たちは決してその経験を風化させてはならないと思います。

 

 この3.11から早くも9年目となりました。この教訓を今後に生かすためにも、甚大な災害について何度も振り返ってみることが大事です。

 様々な媒体によって3.11の記録を見ることができますが、Google Earthでは、津波直後の画像を見ることができます。当時の状況と現在を比較することができますのでおすすめです。

 

GoogleEarthでの操作

1.見たい地域にズームする。

2.ツールバーの時計ボタン(過去のイメージ)をクリックする。またはメニューバーの表示>過去のイメージをクリックする。

3.スライダーを動かし表示したい日時を選ぶ。

 

 首都圏でも液状化現象が極めて広い範囲で発生し、津波による被害もありました。長時間にわたる長周期の揺れは高層ビルを脅かしました。

図1 2011年3月11日東北地方太平洋沖地震による 関東地方における液状化分布図 (石綿作成;遠藤(2015,2017):「日本の沖積層」より)
図1 2011年3月11日東北地方太平洋沖地震による 関東地方における液状化分布図 (石綿作成;遠藤(2015,2017):「日本の沖積層」より)

 

 液状化現象の発生は図1からわかるように、沖積層の厚さ分布とは関係なく、利根川沿いでは旧河道・沼沢地を埋め立てたところなどで、東京湾に面しては特に千葉県の浦安市から千葉市にかけての埋立地で多数発生しました。浦安市の液状化災害はこれまでに例を見ないほどのもので、液状化災害の実態を詳細に解析するとともに、本震と29分後の余震、さらに長く継続した長周期の揺れが関係したことなどを解明した安田・原田(2011)やYasuda et al. (2012)などの論文は記憶に鮮明です。手に入る方は是非お読みください。

 

写真1 マンホールの抜け上がり@千葉県浦安市(原陽一氏提供)
写真1 マンホールの抜け上がり@千葉県浦安市(原陽一氏提供)
写真2 港の傾いた船@千葉県船橋市(野口真利江氏提供)
写真2 港の傾いた船@千葉県船橋市(野口真利江氏提供)
写真3 液状化@千葉県幕張市(西内李佳氏提供)
写真3 液状化@千葉県幕張市(西内李佳氏提供)
写真4 液状化@千葉県幕張市 (西内李佳氏提供)
写真4 液状化@千葉県幕張市 (西内李佳氏提供)

 また、この津波の実態を後世に残すために大変な努力をされた方がいます。この津波がどの範囲のどの高さまで及んだか、河川に沿ってどこまで遡上したかを、基本は足で歩いて調査したのは原口強さんです。岩松さんの協力を得て東日本大震災津波詳細地図、上巻、下巻として出版されています。この前書きにある通り、「今を正確に受け止め、地域の50年先、100年先を見据える上での資料となる」と思います。

 

引用文献

遠藤邦彦(2015,2017改訂)日本の沖積層.冨山房インターナショナル,415, 475p.

安田 進・原田健二(2011)東京湾岸における液状化被害.地盤工学会誌,59(7) ,38-41.

Yasuda,Susumu, Kenji,Harada, Keisuke,Ishikawa and Yoshiki,Kanemaru (2012) Characteristics of liquefaction in Tokyo Bay area by the 2011 Great East Japan earthquake. Soils and Foundations 52, (5) 793-810.

原口 強・岩松 暉(2011)東日本大震災津波詳細地図.古今書院,(上)167p,(下)97p.

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