この地震は1995年の1月17日早朝に発生しました.兵庫県淡路島の野島断層から、神戸市内の活断層帯に波及する直下型地震で,その被害の大きさは全国に大きな衝撃を与えました.それから26年目ということになります.
この地震災害は,その後の日本の自然災害に対する対応に大きな影響を与えました.地震の発生メカニズム,活断層をはじめとする基礎的な研究から,災害に対応する社会の在り方に至るまで,そのすそ野は大きく広がりました.6434人という犠牲者の数の大きさには,老朽化した木造家屋の倒壊が大きく影響したとされています.一方では避難や災害ボランティアについてもこの災害が大きな契機になったと思われます.
個人的に思い出されるのは,地震発生後1ヶ月で開催した,「1995年1月17日兵庫県南部地震調査速報会」のことです.日本第四紀学会が中心になって,日本大学文理学部で開催したものですが,26件の緊急報告と12件のポスター発表があり,熱気あふれる討論が行われました.1000人収容の会場が溢れてしまうなど,裏方としていかに多くの研究者がこの災害に研究者として取り組んだのか,その熱意に圧倒されたのを思い出します.
私は陶野郁雄さんに誘われ,大阪のコンサルタントのお世話で,大阪から神戸に船で渡り,地震発生から3日後に調査に入りました.調査の主眼は地盤の液状化や地盤沈下でしたが,移動中に垣間見る,未だ地震直後の生々しい被害の実態を見て,至る所で衝撃を受けました.写真でその一端を紹介しておきましょう.
遠藤
4階がペシャンコにつぶされた神戸市役所の建物:最も衝撃を受けた光景.応力集中による(撮影:遠藤).
地盤沈下により2階が地下室に(撮影:遠藤).
地下鉄の駅が被害を受けて,地上では道路が陥没(撮影:陶野).
高速道路の倒壊(撮影:遠藤).
倒壊した高速道路の橋脚(撮影:遠藤).
落下した高速道路(撮影:遠藤).
液状化現象,低地や埋立地では至る所で発生(撮影:遠藤).
護岸のはらみ出しなど,埋立地では多くの護岸が損壊(撮影:遠藤).
写真は自然災害と環境問題≫地盤災害・斜面災害のページ≫1995阪神淡路大震災被害写真集 から転載.
URL:http://www.arukazan.jp/endo/web/foundation-slope/fou-1995HanshinEQ.html
フィリピンのピナツボ火山は1991年6月15日に噴火のクライマックスを迎え,10㎞3ものマグマが一挙に放出されるという,20世紀後半における最大の噴火を発生させた.20世紀最大の噴火はアラスカのKatmai火山の1912年噴火で,そのマグマ噴出量は13㎞3とされるからほぼ匹敵する規模であった.
このような規模の大噴火にも拘らず,クライマックス噴火の3日前には6万人もの人々が避難しており,被害を最小限にとどめた大噴火として取り上げられることが多い.
この噴火によって厚く堆積した火砕流堆積物が長期にわたって高温状態を保ったことで二次的な水蒸気爆発が噴火後数年にわたって繰り返されたことも報告されている.
また,この噴火の噴煙柱は成層圏に注入され,火山灰・エアロゾルは地球を何度も周回しながら南北の高緯度地域へと拡散した.その結果生じた地球の気候変動に対する影響という側面でも注目される噴火である.
図1 ひまわりの衛星画像に基づくピナツボ火山1991年噴火時の噴煙拡大の推移
Newhall & Punongbayan(1996)を参考に簡略化
このピナツボ火山の位置は,フィリピンの首都,マニラの北95㎞に位置している.東京で言えばおよそ箱根火山や富士火山と同じ距離にある.北に目をやれば浅間火山,榛名火山,赤城火山ほか多くの火山が類似の距離にある.箱根火山等も過去にはピナツボ噴火と同タイプ,同規模の大噴火を起こしており,首都圏に住む我々には是非とも参考にしなければならない事例である.
この噴火ついてはNewhall & Punongbayan(1996)の1126頁にのぼる大著が刊行されたほか,アメリカ地質調査所(USGS)の報告書によってよくまとめられている(下記リンク参照).さらには,H-U シュミンケ著「火山学」にも詳細に紹介されているので,この本の和訳本に基づいて,以下に概要を述べておきたい.
・Newhall,CH & Punongbayan,RS (1996) Fire and mud:eruptions and lahars of Mount Pinatubo,Philippines.PHILVOCS and Univ Washinton Press, Seattle, 1-1126.
・USGSピナツボ火山噴火報告書のリンク先 ⇒ https://pubs.usgs.gov/pinatubo/
・H-U シュミンケ (2010) 火山学 (隅田まり・西村裕一訳),354pp, 古今書院 ⇒ http://www.kokon.co.jp/book/b238192.html
噴火の概要,観測と対応の経緯
・1990年7月16日 M7.8の地震がピナツボ火山北西100kmの地点で発生.この地震がピナツボ火山のマグマ溜まりに影響を及ぼしたかもしれない。
・1991年3月中旬 地震活動が始まる.
・4月2日 水蒸気噴火が発生.
・4月後半~6月始めにかけて,アメリカ地質調査所から研究者が派遣され,調査・観測にあたる.
・5月28日 SO2の放出量が5000t/日以上に増加.
・6月1日 地震の震源は山頂付近の浅所に集中.
・6月3日 小規模な火山灰噴火が発生.
・6月5日 「火砕流を伴う大規模な噴火が2週間以内に起きる可能性がある(警報レベル3)」と発表.
・6月7日 噴煙(水蒸気雲)が上空8㎞まで上昇,「大噴火が24時間以内に起きる(警報レベル4)」と発表され,多くの住民が避難.
・6月10日 米軍クラーク空軍基地から14500人が避難.
・6月12日 最初の爆発的噴火,避難指示範囲は火口から半径30㎞に拡大され,避難者総数は6万人に達した.
・6月15日 20世紀後半では最大規模となる噴火が発生.
この噴火で生じた噴煙柱は人工衛星の観測データによると,広がった部分の直径は400km,高度は成層圏に達しており,中心部では35km,縁辺部では25kmにまで達して,降下テフラ(軽石・火山灰)の総噴出量は3.4~4.4km3に及んだ.火山灰は偏東風によって西方に運搬された.
火砕流は火口から周囲に広く広がり,放射状の谷を埋め,厚いところでは厚さ200mにも及んだ.火砕流の噴出量は5~6㎞3と見積もられた.
不運にも噴火発生の6月15日,ルソン島には台風が達しており,水分を含んだ火山灰の重みで多くの家屋が崩壊.さらに火砕流堆積物は未固結なため7月から始まったモンスーンの雨によりラハールを発生し,広大な農地が埋め尽くされた.ラハールによる被害は2005年ごろまで続くものと予想され,信じられないほどの経済的・社会的打撃を与えた.
この過程で,アメリカの地質調査所とフィリピン火山観測所の協力により,近代的で詳細な観測がなされ,行政も一体となって,避難の周知にあたった.
〔以上はH-U シュミンケ著:火山学(隅田まり・西村裕一訳)を参考に遠藤邦彦・隅田まり・杉中佑輔がまとめた〕
1991年ピナツボ火山噴火の2年後に日本列島を襲った大冷害
1991年ピナツボ火山の噴火に由来する火山灰やエアロゾルは,地球の広い範囲を覆うようになり,南極の日本の基地の雪からも火山灰が発見された.当時には既に地球温暖化問題(気候変動問題)は国際的に大きな課題になっており,火山灰やエアロゾルの大気圏への注入の効果がどうなるのか大いに注目された.
以下に山川修治日本大学教授によりまとめられたものを紹介する.
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長井大輔氏(雲仙岳災害記念館)からの寄稿に,遠藤が加筆したものを掲載します.
1990年11月17日に始まった雲仙普賢岳噴火は,1991年5月20日に溶岩ドームが初めて確認され,以後激しい噴火に移行しました.
同24日には初めての火砕流が起きていました.
当時,島原市北上木場町にはたくさんのマスコミ関係者が噴火の状況を撮影に来ていました.
その中でも火砕流が正面に見られる位置は,カメラを構えたマスコミでいっぱいになっており,この位置は通称“定点”と呼ばれていました.
その下流に農業研修所があり,地元の消防団が詰所として滞在,地域の監視にあたっていました(図1,2).
同年6月3日16時ごろ,溶岩ドームの崩壊が生じてそれまでで最大級の火砕流が発生し,水無川の谷を流下しました.
火砕流本体は水無川に沿って(写真の左手に)流れ下りましたが,本体の上部は火砕サージとなって北上小場の定点一帯を襲いました(写真の撮影地点の方向).
このため43名の死者・行方不明者が出てしまいました.この中にはアメリカとフランスの火山学者 計3名が含まれています.
写真の農業研修所跡は,火砕流・火砕サージによって焼失し,現在土台のみ残して保存されています(写真1,2).
この雲仙普賢岳の火砕流は,溶岩ドーム崩壊型と呼ばれるタイプですが,火砕流の発生が目の前で頻発したもので,繰り返された溶岩ドームの成長と崩壊の過程が九州大学火山観測所を中心に詳細に記録され,また多くの機関・研究者により噴火の推移や特徴が研究されました.
さらに,6月3日火砕流のように火砕サージが同時に発生し,多くの人命が失われましたが,その現場からギリギリのタイミングで生還された人々の証言に基づき,火砕サージの実態が詳細に研究されています(荒牧・谷口,1997など).
火砕流が発生すると,写真3のように火砕流から上空に舞い上がった火山灰が降ってきて写真のように真っ暗になります(1992年9月25日の例).
また5年近くの長期にわたり様々な被害がもたらされました.
この噴火による降灰は島原市内などの街中では直ぐに水道水を掛けて流されましたが,郊外や市街地周辺の林地や寺社境内の一部にはそのまま降り積もりました(図3).
島原市街地は 眉山 の陰になるため,火山灰の厚さは薄くなっています.市街でも車で走行中にフロントガラスに火山灰がベタッと付着して前方が見えなくなったり,坂道ではスリップしやすくなったりしました(写真4,5).
いずれも火山灰に大気中の水分が多量に含まれていたためです.
雲仙普賢岳の噴火災害で得られた研究成果や災害を後世に伝えるため,土石流の被害の中心であった安中地区に雲仙岳災害記念館がつくられました.
同館は2018年に展示リニューアルしており,4K映像で見られる「平成大噴火シアター」やドローン映像で上空からの平成新山などを観察できる「雲仙岳スカイウオーク」,ジオラマの上を立体的に火砕流が流れる「平成噴火ジオラママッピング」など新しい展示が充実しています.
詳しくは,雲仙岳災害記念館のHP(https://www.udmh.or.jp/)を参照ください.
また,雲仙岳を中心とした島原半島は,日本では最初にユネスコ世界ジオパークに認定(島原半島世界ジオパーク:http://www.unzen-geopark.jp)されており,周辺のジオサイトなども充実しており,見所の多い地域ですので皆さんぜひお訪ねください.
引用文献
荒牧重雄・谷口宏充(1997)1991年6月3日雲仙普賢岳の火砕流による災害;火砕流の破壊力-雲仙普賢岳の例(平成7-8年度科学研究費補助金研究成果報告書:研究代表者 荒牧重雄),1-41.
磯 望・陶野郁雄・遠藤邦彦(1996)雲仙普賢岳噴火に伴う降下火山灰層.西南学院大学児童教育学論集,22巻,2号,p.75-90.
【長井大輔・遠藤邦彦】
1983年5月26日の12時0分に、後に昭和58年日本海中部地震と命名されたマグニチュード7.7の地震が発生し、東北地方北西部に大きな被害をもたらしました。
震央は秋田県能代沖で、津波を伴っていました。日本における液状化現象の調査・研究を長らくリードしてこられた陶野郁雄理事から思い出の記が寄せられていますので、是非お読みください。
大地震の際に生じる砂地盤の流動化現象については古くから知られていましたが、この現象は1964年に発生した新潟地震およびアラスカ地震によって国際的に広く認知され、詳細な研究が進められた結果、 砂地盤の液状化現象として確立されたものです。
陶野郁雄さんは、新潟地震後、1978年宮城県沖地震による液状化現象を調査され(文献1)、1983年日本海中部地震では地震直後に現地に赴かれ、極めて詳細な現地調査を実施し、さらに液状化現象の大規模なトレンチ発掘を初めて実行されるなど(文献2-12)、その後も含めて日本の液状化現象の研究の推進役となってこられました。同氏を中心に進められてきた業績は多数に及びますが、その主なものは以下の通りです。
(K.E.)
1. 陶野郁雄・安田進(1978)宮城県沖地震による液状化現象.基礎工,6,No.11,113-120.
2. 陶野郁雄・安田進・社本康広(1983)日本海中部地震による液状化災害.基礎工,11,125-131.
3. 陶野郁雄・安田進・社本康広(1983)日本海中部地震による液状化現象とその被害状況.土と基礎,31,13-20.
4. 陶野郁雄・社本康広(1984)地盤特性と液状化現象-日本海中部地震の場合ー.地盤震動シンポジウム,日本建築学会,12,57-66.
5. 陶野郁雄・社本康広(1985)日本海中部地震による液状化災害.液状化層の堆積構造に基づく液状化震度の推定に関する研究(昭和61年度文部省科学研究費補助金(自然災害特別研究(1))研究成果報告書,8-48.
6. Tohno, I. and Shamoto, Y. (1985) Liquefaction Damage to the Ground during the 1983 Nihonkai-Chubu(Japan Sea) Earthquake in Akita Prefecture, Tohoku, Japan. Natural Disaster Science, 7, 67-93.
7. Tohno, I. and Shamoto, Y. (1986) Liquefaction Damage to the Ground during the 1983 Nihonkai-Chubu(Japan Sea) Earthquake in Aomori Prefecture, Tohoku, Japan. Natural Disaster Science, 8, 85-116.
8. 陶野郁雄(1986)液状化現象から見た砂質堆積物の物理的・堆積学的特徴.地質学論集27号[都市地盤の形成史と地層の液状化],15-42.
9. 陶野郁雄・社本康広(1986)地形・地質分類に基づく液状化危険度の予測.日本地震工学シンポジウム論文集,7,103-108.
10. 陶野郁雄(1987)液状化層の堆積構造に基づく液状化深度の推定に関する研究.昭和61年度文部省科学研究費補助金(自然災害特別研究)研究成果報告書,179pp(+資料編51pp).
11. Yasuda, S. and Tohno, I. (1988) Sites of reliquefaction caused by the 1983 Nihonkai-chubu earthquake. Soils and foundations, 28, No.2, 61-72.
12. 陶野郁雄(2013)液状化現象.デジタルブック最新第四紀学(DVD版),日本第四紀学会
日本海中部地震液状化調査の思い出
陶野 郁雄
1983年5月26日正午に東北地方北西部で大変強い地震が発生した。その時私は国立公害研究所の研究室で揺れを感じた。すぐに食堂にあるテレビに向かい秋田において災害が発生したことを知った。
当時基礎地盤コンサルタンツにおられた安田 進さんから研究室に電話がかかってきた。東大の石原研而先生も調査に出かけるそうなので、東工大として一緒に調査に行かないかとの誘いを受けた。そこで、清水建設技術研究所の社本康弘君に電話し、少し前まで勤めていた東工大建築の学生2名を連れて参加することにした。
翌朝1番の飛行機で石原先生などと共に秋田空港に向かった。基礎地盤の方々も加わり秋田空港ではかなりの人数となっていた。石原先生に言われて空港において予め用意されていた地図の前で30分位青森と秋田のどの辺で液状化が生じている可能性が高いかを話した。
その後、石原先生と安田さんのグループ、そのほかの東大グループ、東工大グループの3グループに分けて調査を行い、連絡先は基礎地盤の秋田支店長とした。東大の2グループは秋田市内と八郎潟に向かった。一方、私たちは津軽平野に向かった。国道などは通行止めで青森に行けないことを知り、角館から田沢湖西側の山道を抜け青森に向かった。林道まで頭に入っていたので崩れて通れないところを避けながら青森に向かった。
殆ど飲まず食わずの状態で弘前に着いたのは既に午後2時を回っていた。
弘前で昼食を取った後、岩木川に沿って北上すると少しずつ液状化の痕跡が見られるようになって来ました。最初に大規模な液状化現象が見られたのが、 下車力 でした。
その後、 富萢 に行きました。
そこで手分けをして調査していたら、学生が村の人を連れてきて、方言で何を言っているのか分からないので、聞いてほしいと言ってきました。
村人は山の上地区で地震によって大きな穴ができているといって案内をしてくれました。
それが、直径7mもある大噴砂孔でした。
学生たちは東工大建築学科の腕章とヘルメットをしていたことから、周りの調査を社本君たちに任せ、山の上地区の家1軒1軒案内していただき、家の方から被害状況を聞き、調べ、そして応急処置のアドバイスをしてまわりました。
中には極めて危険な家屋もあり、今晩比較的安全な近くの家に泊まってほしいと言うこともありました。
調査は既に真っ暗となった午後8時過ぎまで行いました。
弘前に戻ったのは、午後9時半を回っていました。そこで、開いている店を探し、夕食を取りました。弘前に泊まろうと連絡したところ、東大グループが大館に泊まっているのでそこに行ってほしいと言われました。
そこで、ホテルに連絡したところ何時になっても構わないから是非来てほしいと言われ、大館に向かうことにしました。ホテルに着いたのは午前1時近くでした。私が案内されたのは最上階の特別室でした。別室がいくつもあり、午前1時半頃から打ち合わせを行うところと飲むところを用意できました。これが、調査初日です。
それから津軽には1987年まで都合100日以上調査に訪れることになりました。
(続く)
2016年に熊本地震が起こっています.2度も震度7の地震が起こり驚かされたあの熊本地震です.最初の地震は4月14日21時26分に発生しました.熊本県益城町で震度7を観測(マグニチュード(Mj)6.5,震源の深さは11㎞).2度目の地震は4月16日午前1時25分に発生しました.これは当初14日の本震の余震と考えられましたが,後に震度7(マグニチュード(Mj)7.3,震源の深さ12㎞)と訂正され,14日の方が前震,16日の方が本震とされています.2つの地震の震源は約4㎞離れているだけでした.
極めて多数の大きな地震が熊本県から大分県にかけて発生し,広域に被害が生じました.以前から調査されていた活断層,益城町付近で交差する布田川断層帯,日奈久断層帯に関係した活動と考えられています.
この地震については,地震活動と活断層帯との関係,災害の状況,被害と地盤の関係,復旧・復興,避難生活等々多くの調査・研究・報道が行われました.その中から地震直後の調査例を紹介します.
有珠山2000年噴火は3月31日に発生し,以後長く継続した.
3月31日の数日前の3月28日から火山性地震が多発し,30日には2400回余に達した.
この間に住民に避難勧告や避難指示が出され,16000人近くが避難した.日本の火山噴火では「噴火予知の成功例」とされる.
その背景には火山観測研究者(北大)と地元自治体との長年にわたる連携の実績があった.
写真の噴煙は後にマグマ水蒸気噴火とされ,噴煙の基部から火砕サージが写真の左手に小規模に広がるのを見ることができる.
この後の噴火は水蒸気性の噴火となった.
有珠山2000年噴火によるテフラの分布図(火山灰は札幌の北まで達した)
左は全体,右は火口周辺のアップ
単位は1平方mあたりの降下重量g
噴火初期には大量の噴石が西方に噴出した.
国道を覆う一面の噴石
下方は泥流で覆われ隠れる
噴石は国道の先にあった洞爺湖幼稚園を襲った.
多数の穴は噴石による.
洞爺湖幼稚園の噴石
噴火による火山灰の堆積と,その後の地殻変動によってかつての国道は見る影もなくなった.
有名な土産物であったお菓子の工場は押しつぶされた.
参考文献
大野希一・国方まり・鈴木正章・西村裕一・長井大輔・遠藤邦彦・千葉達朗・諸星真帆(2002.11)有珠山2000年噴火でもたらされた火砕物の層序.火山,47(5),619-643.
長井大輔・遠藤邦彦・国方まり・中山聡子・本松史年・大野希一・千葉達朗・鈴木正章(2002.11)粒度分布と凝集構造から見た有珠山2000年3月31日噴火の火山灰.火山,47(5),607-617.
国方まり・大野希一・本松史年(2003)有珠山 2000 年 3 月 31 日噴火の推移.日本大学文理学部自然科学研究所「研究紀要」,(38),167-180.
※この他にも多くの機関から沢山の研究・報告が出ています.
それは言うまでもなく、2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)に発する極めて大規模な津波です。その被害の甚大さと広がりから東日本大震災とよばれました。まだまだ復興も半ばという所が少なくありません。私たちは決してその経験を風化させてはならないと思います。
この3.11から早くも9年目となりました。この教訓を今後に生かすためにも、甚大な災害について何度も振り返ってみることが大事です。
様々な媒体によって3.11の記録を見ることができますが、Google Earthでは、津波直後の画像を見ることができます。当時の状況と現在を比較することができますのでおすすめです。
GoogleEarthでの操作
1.見たい地域にズームする。
2.ツールバーの時計ボタン(過去のイメージ)をクリックする。またはメニューバーの表示>過去のイメージをクリックする。
3.スライダーを動かし表示したい日時を選ぶ。
首都圏でも液状化現象が極めて広い範囲で発生し、津波による被害もありました。長時間にわたる長周期の揺れは高層ビルを脅かしました。
液状化現象の発生は図1からわかるように、沖積層の厚さ分布とは関係なく、利根川沿いでは旧河道・沼沢地を埋め立てたところなどで、東京湾に面しては特に千葉県の浦安市から千葉市にかけての埋立地で多数発生しました。浦安市の液状化災害はこれまでに例を見ないほどのもので、液状化災害の実態を詳細に解析するとともに、本震と29分後の余震、さらに長く継続した長周期の揺れが関係したことなどを解明した安田・原田(2011)やYasuda et al. (2012)などの論文は記憶に鮮明です。手に入る方は是非お読みください。
また、この津波の実態を後世に残すために大変な努力をされた方がいます。この津波がどの範囲のどの高さまで及んだか、河川に沿ってどこまで遡上したかを、基本は足で歩いて調査したのは原口強さんです。岩松さんの協力を得て東日本大震災津波詳細地図、上巻、下巻として出版されています。この前書きにある通り、「今を正確に受け止め、地域の50年先、100年先を見据える上での資料となる」と思います。
引用文献
遠藤邦彦(2015,2017改訂)日本の沖積層.冨山房インターナショナル,415, 475p.
安田 進・原田健二(2011)東京湾岸における液状化被害.地盤工学会誌,59(7) ,38-41.
Yasuda,Susumu, Kenji,Harada, Keisuke,Ishikawa and Yoshiki,Kanemaru (2012) Characteristics of liquefaction in Tokyo Bay area by the 2011 Great East Japan earthquake. Soils and Foundations 52, (5) 793-810.
原口 強・岩松 暉(2011)東日本大震災津波詳細地図.古今書院,(上)167p,(下)97p.